オンライン医学部予備校

2023年度入試で医学部(東大京大)への合格を目指す全ての受験生をサポートします。

共通テスト国語2023 (6)──小説①

引き続き、共通テスト2023第2問(小説)を検討しよう。

出題文の作者は、文学史的には「第1次戦後派」に分類される梅崎春生うめざき はるお 1915~1965)。戦後派の名前通り、当初は戦争体験や戦後の焼け跡の混乱した世相に題材を採ったが、同時にのちの「第3の新人」と呼ばれる文学者グループを先取りする都市的・小市民的感性を作中ににじませ、独自の境地に達した人だ。出世作桜島だが、わたくしQ氏にとっては最後の小説「幻化」が忘れられない。

 

梅崎春生の小説の主人公は、気弱でいわゆる「いじめられっ子(のび太)」タイプであり、要領の悪さや根気のなさに加えて小市民的な心の狭さも持つがゆえに人生がうまく行かず、周囲の厚顔無恥あるいは狡猾な、あるいは本式に頭のイカれた人物たちに好き放題に翻弄される…というパターンが多い。じゃあ、周囲の人物たちに負けて一方的におとなしく引きさがるかというと、そうではなく、内心でぶつくさ不平を募らせるのであるが、その不平が人類普遍の理想や正義感と、いじめっ子的存在へのいじけた反発心みたいなものをこき混ぜた、小市民的で情けないなりに、非常に「こじれた」複雑な心情になっていて、同じ小市民性を持った読者の、自己嫌悪の交じった共感を誘うのである。「取り返せないハンディキャップとしての弱さを抱えた人間からの、やけくそな異議申し立て」のようなテーマに固執した作家である。Q氏は好きな日本の小説家の1人だ。

第2問の素材となった「飢えの季節」は、生々しい焼け跡を舞台とした、まさしく「戦後」小説である。皆さんこういう小説読んだことある? 第1次戦後派(梅崎春生のほかに、野間宏、椎名鱗三ら)あたりは、いま若人が読んでも2~3周回って面白いかもしれない。

途中出てくる昌平橋のたもとの物乞い老爺の描写などが、「格差」に揺さぶられつつある現代に通じる問題を描いた場面として印象に残る。

 

大学入試センターさんは、

「この小説を読んで、いま、作中の時代と同じような格差に再び引き裂かれつつある社会に生きる自分たちの問題を、受験生の皆さんにも考えてほしい」

と有難くおっしゃっているのである。現代国語の問題には、このように試験問題の作り手からの強いメッセージが込められていることが多い。だから、受験生諸君もそれを心して受け止めてあげてあげると、センターさんも喜ぶと思うのだな。

が、戦後社会に仮託して現代社会の問題を鋭くえぐり出すセンターさんの意図に反して、マスコミは今回、現国のこの問題にはぜんぜん注目する気配がなかった。やはりアンテナの感度が低く、思考も表面的なマスゴミと言われても仕方ない存在なんですかね、現代のマスコミは。問題を詳細に読むひまなどなく、ちょっとした話題箇所だけ記事にしてるんでしょうかね。ちゃんと記事になったのに、Q氏が読んでいないだけかもしれないが。

 

さて、出題文は適切だし、問題も評論よりはクリアで、分かりやすい。今回は評論を難しくして、小説を標準的にしようという調整が働いたのだろうか。

 

ただひとつ、慌てていると読み取りにくい情報がある。それは、本作の主人公「私」が、果たして実際に「農作物を盗んで」いたのかどうか(問4・選択肢①)だ。この問題を先に片付けておこう。

結論から言えば、主人公は戦後の食糧不足の中、実際に農作物を盗んで食いつないでいたのである。文中の証拠をつなぎ合わせて読み取らないといけない。しかも証拠が散らばっているから、急いで読みすぎてとうとう分からなかったという受験生も多いのではないか。これは「ヨマヌ真理教」信者には分からないわなあ。

 

まず問題文4ページ目(問題冊子23ページ目)7~8行目「朝起きたときから食物のことばかり妄想し、こそ泥のように芋や柿をかすめている私自身の姿」とある。こそ泥の「ように」と直喩だから、ここは比喩的な表現に過ぎないように読める。「かすめている」というのも、文字通り畑に入って窃盗罪に当たるような盗み方をしているのか、あるいは1行前に「長山アキ子の腐った芋の弁当」とあるから、気に食わない同僚のお弁当のおかずの芋をこっそり1品いただいたりしている程度なのか、よく分からない。「長山アキ子の弁当」からは、芋の窃盗が本当なのかどうかは読み取れない。

 

ところが、この箇所を読んでから同ページの4~5行目に戻ると、「闇売りでずいぶん儲けたくせに柿のひとつやふたつで怒っている裏の吉田さん。」とある。おそらく「私」は、吉田さんが闇売り(高額での違法な物資販売)で儲けていることを憤り、ねたみも感じて、「天罰だ」とか言いながら、実は自分の飢えを満たすために裏の吉田さんの庭の柿をふたつぐらいもいで食べたのだろう。そして、吉田さんに見つかって怒られたのである。そのことをいつまでも根に持っている「私」のいじましく情けない心情が、梅崎春生チックである。非常に「小学生的」な逆恨みの仕方だが、Q氏は梅崎春生の小説がもつこの「永遠の小学生」という感覚が非常に好きだ。『ドラえもん』ののび太のルーツは、梅崎春生の小説の主人公かもしれない、と時々思う。

 

そして問題文5ページ目(問題冊子24ページ目)13行目「盗みもする必要がない、静かな生活を、私はどんなに希求していたことだろう。」が決定打となる。「私」は飢えに堪えきれず、柿や芋を文字通り窃盗しながら広告会社に勤め、食物を盗む生活への罪悪感の裏返しとして「都民のひとりひとりが楽しく胸をはって生きてゆけるような」都市のビジョンをひねり出していたのである。そして、その構想には「柿の並木」が出てきて(柿の街路樹って変でしょう?)、「夕昏散歩する都民たちがそれをもいで食べてもいいような仕組になって」いるのである。

自分が柿をもいで食べて怒られたから、自由に柿をもいで食べられる東京にしたい!

なんと皮肉で、いじましくも切実な理想の未来都市図であろうか!

そして「私」はその理想を周囲の人たちから寄ってたかって否定的に扱われ、昌平橋の老爺から、自分も直面している目を背けたい現実を突きつけられ、給料問題に衝撃を受け、さまざまなショックに翻弄されたあげく、「このままではいけない」と、初めて勇気をもって自分の力で自分の人生を切り開いていこうと決意するのである。ただ、その後の「私」を何が待っているのかは、本文からは完全には読み取れない。そういう小説である。

受験生の皆さんは、ちゃんと読み取れましたか。

 

上のようなストーリーからすると、「私」が果たして本当に芋や柿を盗んでいたのかどうかは、解釈の上でかなり大切な問題となる。そのヒントが読み取りにくいのは、これはもちろんセンターさんの意図的な仕掛けだ。だから、本文の解釈で難しいのは問4だと言えそうだ。

 

さて、では次回から、大急ぎで選択肢を検討しましょう。

共通テスト国語2023 (5)──評論⑤_選択肢の検討その3

共通テスト国語の解説のつづきですよ~。わたくしQ氏もけっこうトシを自覚する頃合なので、前回までの密度で解説を始めたものの、目がチカチカして痛くなったりする。受験生の皆さんに需要があるのかどうかは分かりませんが、いちおうやりますね。

…今年、初めて当予備校ブログを担当させていただくので、勇んで始めましたが、これを共通テスト1回分、全部やるのはかなりキツいっスね(ポツリ)。逆に、ここまで詳しく解説している本とかはないと思うぞ。自画自賛。こんな分量書いてたら、ページ数がいくらあっても足りないもん。

 

さて第1問評論問5である。

 

傍線部D「壁がもつ意味は、風景の観照の空間的構造化である。」の意味を問う設問だが、これはけっこう紛らわしい。問う部分はよいのだが、なんか選択肢が無駄にめんどくさい気がするぞ。問2と共に今年の評論の出題の疑問部分である。

 

まず、傍線部Dの意味を独自に「翻訳」できるようにした方がよい。観照が難しい語なのだが、これは直後に出てくる「テオリア」の漢語訳として使われる語である。ここではギリシア語で、『見ること』『眺めること』の意。」と注がついている。

「空間的構造化」「空間を仕切って構成し直すこと」とでも訳せるだろう。だから傍線部Dは「壁がもつ意味は、空間を仕切って構成し直すことによって、(住宅の内部で)風景を静かに眺めるいとなみを可能にすることである。」とでも訳すことができるだろう。

このように、明らかに書き方が難しい文の意味を問われている場合、自分で翻訳してから選択肢に当たってみることは大いに訓練になる。今年の受験生だけでなく、来年の受験生も今から折に触れてやってみるとよいと思う。

 

そこで選択肢を検討。

まず全然ダメなのは①②。①が全然ダメなのは分かりやすいと思うから、皆さん考えてください。②は「さまざまな方向から景色を見る自由が失われる。」「人間が風景と向き合う空間」がダメです。

 

残る③④⑤のうち、④は「風景を鑑賞するための空間」がダメ。「鑑賞」と「観照」の意味は違うのだ。壁と窓による視覚の構造化は風景を愛でるためになされるのではなく、居住者が内面にこもって瞑想し、沈思黙考する(これらは「ものごとを静かに眺める」という意味での観照と意味が近い)ために施されるものである。

 

さて、残る③⑤の決勝戦がけっこう難しい。正解は③なのだが、ダミー選択肢の⑤がダメなのは「自己省察するための空間」「自己省察だけである。テクスト中で筆者が述べている「瞑想」「沈思黙考」は、必ずしも「自分を省みる」というような、或いは「自己とは何か」という問いを発しつつ考えるような、道徳的・哲学的な反省ではなく、むしろ無心になってありのままの自分に還るというような、座禅や流行りのマインドフルネスみたいな営みを指していると読めるからである。「沈思黙考」とはいうが、ここでは考え込むというよりは「無心になる」ことがイメージされているのではないか。

が、本肢でも「自己省察」という哲学的用語の意味を、出題者が限定して使いすぎのような気がする。「自己省察=道徳的・哲学的反省」というのは、ある程度人文系の教養のあるヒトの間でこそ暗黙の了解と言えそうだが、共通テストの受験生に、本文中にも説明されていない「自己省察」の意味を、いきなり的確に解釈することを求めていいのか? という疑問はある。

問2の「自己の救済」といい、なんか、人文系大学1~2年レベルの教養を前提としすぎのような気がする。ひょっとしたら作問者は、こういう言葉の意味は受験生にとって自明のものではないということが、分かっていないのではないだろうか? 受験生の頭の中が見えていないのかもしれない。満点阻止策にせよ、ちょっとやりすぎな気がする。どこから見ても納得できる良問とは思えませんね。

 

最後の問6は共通テスト名物「話し合い」或いは「メモ」コーナーである。だん吉・エバのおまけコーナー!(←このネタは分かるかな…)こういうのは、割といい設問だと思う。

急ぎ足で行こう。

(ⅰ)は【文章Ⅰ】が「窓」、【文章Ⅱ】が「壁」を主題にしていることが読み取れれば、比較的平易。正解は④で、ダミーは③。③は「窓の機能には触れられていない」がマチガイ。

(ⅱ)はちょっと紛らわしいが、正解は②。ダミーは①だが、「現代の窓の設計に影響を与えたこと」がダメ。確かにそういう面もあるのだろうが、2つのテキストが直接に主題として論じているル・コルビュジエの建築の特色は、選択肢②にあるように「居住者と風景の関係を考慮したもの」であることだ。本文のテーマに関する選択肢だから、①は脇道にそれていて、ダメだと考えるべきだろう。

(ⅲ)は非常に面白い設問。2つのテキストの相違を通して、1本目に述べられていた「子規の書斎」も、実は2本目のテキストの窓と居住空間に対する解釈によって再解釈できるのではないか…という、センターさんの独自解釈をありがたく押しつけてくる設問だ。もちろん的確で、非常によい解釈だし、読解力のある受験生は目からウロコが落ちるような新鮮さを感じるかもしれない設問だが、やはり解釈を誘導しすぎのような気がする。設問者が「どうだ、この解釈はすごいだろ!」と自慢しているような、パワハラ的見せつけ感はある。評論の読解では、もうちょっと中立的な解釈を問う方がいいんじゃないか…とQ氏は思うが、まあ、この選択肢は面白いからいいか…という気もして、いわく複雑である。正解は③

 

問6は各選択肢が4択と少なく、割に簡単に2択に絞れるように作ってあるから、問題量は多いが、ここはスピーディに駆け抜けたい。ただし、来年以降はこの問6のような部分が「激ムズ」になるとかいうパターンも考えられないではない。

 

ともかく、今年の第1問は全体に「力みすぎ」のような気がした。問2と問5が疑問手で、意地が悪いか作り方が悪いか、どちらかである。でも、テキストそのものは、部分的な説明不足(「動く視点」など、出題部分以外のところに書いてある内容が出てくる)はあるけれども、なかなか新鮮で評論文の醍醐味を感じさせるし、問6の(ⅲ)が独善的ではあるが、非常に面白い。

受験生からすると、かなりやりにくかっただろう。今年の受験生の皆さん、おつかれさまでした。

 

さて、次回からは第2問・小説を検討しよう。

共通テスト国語2023 (4)──評論④_選択肢の検討その2

共通テスト国語の解説、始めたのはいいけれど膨大になりそうなので、適宜はしょりましょう。まだ市販の詳細解説本は出ていないと思いますから、特に現高2生は参考にしてくだされ。

 

さて、第1問(評論)の選択肢の検討、続きである。

 

問3。この問題はまあいいかな…と思う。正解は②。②は問題点がない選択肢なので検討せず、他の選択肢の「ダメ」部分を大急ぎで指摘しよう。

 

①。「室内に投影して見る」が完全にダメ。これはそんなこと、ひとことも言ってないでしょう。ル・コルビュジエが住まいを「徹底した視覚装置、まるでカメラのように考えていた」(本文)の部分に引きずられた受験生はこれを選んだかもしれないが、ここはル・コルビュジエの話であって、子規の話ではない。このように「本文中、文脈の異なる部分にある表現を強引に適用して解釈する」のは、いくら何でもダメなんです。類推や拡張解釈によって「無理とは言えない」選択肢は排除しにくいが、文脈の異なる部分から持ってきた選択肢は、完全に的外れになり得ますからね。

 

③。これも完全なダメ選択肢。選んだ人はちょっと読解力に問題があるかも。「外の世界と室内とを切り離したり接続したりする」は、【文章Ⅱ】の18行目「視点と風景は、一つの壁によって隔てられ、そしてつながれる。」とは一致する表現だが、ぜんぜん違う文脈じゃないですか。これは選んじゃダメよ。ダメダメ(ト寒いギャグを入れるわたくしQ氏であった。日本エレキテル連合の中野さん、お大事に)。

また本肢中の「視界に入る風景を制御する仕掛け」もダメ。壁面の配置によって窓を切り出し、視点と風景との切断/接続を演出するというのがル・コルビュジエの建築術なわけだが、その壁が移動可能であるとかの話ではないので、「制御」という熟語はいくら何でも不適切ではないか。理系受験生を陥れるワナという感じ。

 

④は「新たな風景の解釈」がダメ。風景にさまざまな解釈があり得て、新たな解釈を提案するというような話ではなく、風景の一部分を切り取ることで、純粋に視覚的な「見え方の変更」を演出するのがガラス障子だからだ。「解釈」という語には「考えて、意味を読み込む」という意味があるから、ガラス障子がもたらす「考える以前の、感覚の新鮮さ」の意味にはそぐわない。

 

⑤は「絵画に見立てる」がダメ。そういう効果があるようにも読み取れるが、ガラス障子が切り取るフレームの中の風景は人為的に構成されたものではなく、あくまでも自然の風景の一部分。絵画のように意識的に構成されたものではない。何となく「風景を絵画みたいなものにするのがガラス障子なんだな」と読んだ人、もうちょっと読みを細かく。

 

結局、正解の②と決勝戦を争うダミー選択肢は⑤だろうが、④もそれっぽい。しかし、どちらにも決定的にダメな語句が含まれているから、この問題は自信を持って選べるようにしたい。

 

万事このような調子で検討していくと、めちゃくちゃボリュームが増えそうだな。

 

次の問4は割とうまい設問。②と③が完全にダメ。理由は各自考えてください。

残った①④⑤は、サッと読んだだけではどれも正しいように思えてしまう。「錯覚」を利用したトリックアートみたいな感じの選択肢ですね。正解は⑤。

 

この3つでは、まず①がダメ。窓をカメラにたとえるのはよいとして、「外界に焦点を合わせる」が「風景を平面化して切り取る」とちょっと意味が異なるので、ここもダメなのだが、「風景がより美しく見えるようになる」が完全にアウト。ル・コルビュジエの窓は、必ずしも通常の意味で「風景を『美しく』見せる」ことを目的としているのではない、ということを、皆さんはちゃんと読み取れますか。ル・コルビュジエの建築が「窓」によって切り取る風景というのは、絵画的な意味での美しさを演出された風景ではなく、もっと「解釈以前の」感覚に刺激を与えるような、やや難しい熟語で言えば即物的な」ビジョンである。

【文章Ⅱ】の21行目「かれは、住宅は、沈思黙考、美に関わると述べている。」「美」に引きずられて本肢を選ぶ受験生はいるだろう。が、文脈が違う。ここでの「美」は、住宅の中で瞑想し、沈思黙考することによって感じ取られる「反省的な美」であり、窓によって切り取られた即物的な平面としての風景を「動かぬ一点」で受け取る居住者が、その風景の刺激から心の中で作り上げる「美」だと言える。ただちょっと難しいよね。

 

さて、最後にダメなのは④。「効率よく配置する」「風景への没入」がダメ。一見よさそうに見える選択肢の好例である。壁の配置の仕方は「効率」が基準ではないし、風景への「没入」という語もやや不適切。むしろ内面への「没入」=瞑想あるいは沈思黙考、という形で使う方がふさわしい熟語だ。一見良さそうな人なのに、実はひどい奴、世の中にはたくさんいますから、受験生諸君も気をつけてね。

 

う~ん、この調子でやると大変なことになるな。そもそも受験生諸君が読むかという問題もある。早く切り上げた方が良さそうですから、適宜飛ばしましょう。

共通テスト国語2023 (3)──評論③_選択肢の検討その1

医学部受験生の皆さん(とはいえ、国語の話題が多いので、全国の国公立・私立他学部受験生の皆さんも待ってるよ!)、寒波の影響はいかがですか。今週はかなりきつかったのではないかと思います。わたくしQ氏も寒波の間接的な影響を受け、ブログの更新が少し遅れてしまいました。

私大医学部入試は土日も実施されますので、大雪の地域の方は特に交通手段に留意してください。また、雪の季節に怖いのは、凍結した歩道を徒歩で移動中に足を滑らせ転倒することです。雪国の皆さんは慣れているかもしれませんが、近くに試験会場がないため雪国のキャンパスに直接赴いて受験する皆さんは、徒歩での移動にも十分注意してください。

 

さて、今さらながらの共通テスト2023国語・第1問(評論)の解説である。現高2生向けの内容になってしまうと思うが、まだ市販の解説本が出ていないから、答え合わせに少しは参考になることを祈ります。私大文系の人も答え合わせに使って、難関私大の選択肢式国語問題などのコツに流用してください。

 

さて、各問題の選択肢をざっと見てみよう。

全体的に、難しすぎる。2本の出題テキストが相互参照を要求する「仕掛け」は非常によくできているのだが、問題のレベルが難しい方に統一されすぎていて、これでは「評論惨敗」の受験生が雨後の筍のようにニョキニョキと生まれてきたのではないかという気がする。筍、筍、筍が生え。この部分の平均点はあまり高くなさそうである。

 

比較的お若い、意欲的な先生が作問なさると、こうなるんですよね。意欲的で仕掛けに充ち充ちていてよいのだが、「適度に手綱を緩める」というところがない。受験生には1問くらいちゃんと取らせないと、無駄に0点続出みたいになり、受験生のガラスの心を崩壊させてしまう。ひょっとしたら精神疾患を発症させてしまうかもしれないぞ。責任重大。

問題間調整でわざと難しくした可能性もあるが、「Q氏的には」ちょっと今回の評論は、出題テキスト・選択肢ともに難しすぎの判定である。テキストを難しくするのはよいと思うが、それなら問題を「気持ち」平易にするのが常道と思えるし、共通テストであまり受験生をいじめても仕方がないような気がするので、今回の問題は「国語入試問題評論家」を自称するQ氏としては、満点はあげられません。75点くらい。かなり調子に乗って、上から目線的なことを言わせてもらっていますけれども。

 

さて、では問題を解説します。問1の漢字・語句は皆さんで答え合わせをしてください。

 

問2。選択肢がいきなり紛らわしい。

 

まず、完全にダメな選択肢は⑤。「作風に転機をもたらした」が本文中のどこにも書いていない。

次にダメなのは①。ガラス障子越しの風景を見ることが「現状を忘れるための有意義な時間になっていた」ことが、ガラス障子の中心的な効果ではない。本文にあるガラス障子の効果は、時間的なものというより「外界の一部分を切り取る」という空間的なものだからである。時間⇔空間という二項対立で考えると腑に落ちるぞ。

が、本文には書いていないけれども、本肢のような効果が本文からの類推で「まったくあり得ない」とは言えないだろう。本文11行目に「季節の移ろい」という、時間の推移を意味する表現もあるからである。10%くらいの割合では、本肢の解釈は可なのではないかと思われる。このように「文章の解釈を強く限定したがる」のがセンターさんの悪癖であり、本問にはその傾向が非常に強く出ている。

 

残り選択肢②③④は似たような感じに思えるかもしれないが、この中でダメなのは④。「外の世界への想像」がダメで、子規はガラス障子を通じて外界を「想像」していたのではなく、ガラス障子によって切り取られた、実際に目に映る風景によって視覚を楽しませていたのである。でも、想像もしてると思うけどねえ。

 

さて決勝戦②と③。答えは③で、②は「自己の救済につながっていった」がダメ。そこまでは書いていないからである。

でも、自己の救済につながっていった…という解釈自体が、本文の拡張解釈によって完全に不可能というわけではない。

本肢の「自己の救済」が、「魂の救済」みたいな大げさな意味であるならば、確かに本文からは読み取れないが、「風景を見て楽しめた」ことによる「癒やし」程度を「救済」と呼んでも不都合ではない、と判断する受験生もいるだろう。そして、「救済」の言葉の意味もピンからキリまでありうるので、「風景を見たことによる生の実感」ぐらいの感覚を「救済だ」と解釈する読者「それは救済ではない」とは、根本的には言えないここが言葉の難しさなのである。

「救済というのは魂の救済みたいな、ロシア文学的壮大なテーマを指す」と考えている作問者の方が、知的な修練を積んだ人特有の「思い込み」にとらわれているような気がする。

 

というわけで正解は③なんですが、この③の中の「契機」というコトバの意味が分からなくて、③を避けて②に行ってしまった人は多いのではないか。「契機」は「きっかけ」という意味と「物事のきっかけをなす構成要素」の意味がありますが、本肢では素直に前者でいいと思いますよ。

 

う~ん。最初からなんか、不穏な雰囲気ですねえ。この調子で1問ずつやっていると膨大になりそうですから、以下、適宜はしょりながら解説します。

共通テスト国語2023 (2)──評論②

寒波の影響でわたくしQ氏にも急ぎの用事が発生し、平日の更新をお休みさせていただきました。医学部受験生だけでなく、大学受験生の皆さん、全国的な低温と雪に注意して、引き続き入試に全力投球してください。

 

さて、来年度(2024)受験生向けの共通テスト国語2023の解説、第1問(評論)の続きである。

 

建築家ル・コルビュジエが自ら設計した作品に取り入れた「窓」の意匠について、異なる視点から見た2つのテキストを並べた出題である。なかなかおもしろい問題だが、1番目のテキストの途中「視覚装置」の言葉が出てくるあたりから、受験生には難しく感じられるようになるはずだ。

1本目のテキスト(柏木博による)は、要約すれば次のようになるだろう。

ル・コルビュジエの建築における『窓』は、正岡子規の書斎のガラス障子が自然に果たしていた外界を眺めるスクリーンとしての役割を、より意識的に、より徹底した形で与えられている。壁と窓とによって構成される『視覚装置』としての建築を追究した点に、ル・コルビュジエの意匠の戦略性と独自性がある。」

 

さて、2本目のテキスト(呉谷充利『ル・コルビュジエと近代絵画──二〇世紀モダニズムの道程』)は、文章がより難解で、評論の苦手な受験生の中には、一読して意味をつかみかねた人も多くいたことと思われる。こういう文章を突きつけられると、テキストを読まずに問題に取りかかる「ヨマヌ真理教」に入信したくなる気持ちも分からないではない。現高2生はその誘惑を退けられるようにしておこう。

 

1本目のテキストでは、ル・コルビュジエによる「視覚装置」としての建築が主題となり、「窓」の役割の重要性に注意が向けられていた。

2本目のテキストでは、1本目と同じル・コルビュジエの著書『小さな家』の一節を引用しながら、窓よりも「壁」の役割に注目している。文章全体として、開口部である窓を構成するために外界を覆い隠し、風景を切り取る「壁」の働きこそが、ル・コルビュジエの建築意匠の中心なのではないか、という趣旨だ。

そして、2本目のテキストで筆者がル・コルビュジエの建築に見出している意義は以下のようなものである。

すなわち、建築においては、外界と屋内の空間とが「壁」によって隔てられていることが重要であって、その「壁」の開口部である窓によって、外部の「風景」を眺める屋内の(居住者の)「視点」が1点に定められることに意義がある。ル・コルビュジエが建築の内部空間を、壁によって外光から遮られた静かな瞑想、沈思黙考の場と考えていたことが、この「動かぬ視点」の存在から看取される。この「動かぬ視点」から見えてくるル・コルビュジエの建築に対する考えは、かれが別のところで述べている「動く視点」の概念とは対照的であり、かれの後期の宗教建築に具現化されている。

 

2本目のテキストは表現がやや難解であるのに加え、「動かぬ視点」と対比される「動く視点」が詳しく紹介されていないため、これらの二項の対立は明確に読み取りがたい。が、このテキストでは「窓」よりも「壁」の役割が重視されており、筆者が「外界を映し出すスクリーンとしての窓」よりも「外光を遮断し、窓を切り取る壁」により注目していることを読み取る必要がある。

けっきょく、同じ作者の建築について、「窓か壁か」どちらを強調するかによって、異なる見方が可能であるということが、大学入試センターさんが受験生の注意を促したい点なのだ。

「二項対立」を読み取るのならば、

〇1本目のテキストでは、同じ「スクリーンとしての窓」に関して、原初的なかたちとしての正岡子規の書斎のガラス障子」と、より意識的な形態としてのル・コルビュジエの建築の窓」の2つ。

〇2本目のテキストでは、「ル・コルビュジエが壁によって屋内に生み出した『動かぬ視点』」と、「彼が別のところで何度も述べている『動く視点』」の2つ。

が可能だろう。

が、1本目のテキストにおける「窓」と、2本目のテキストにおける「壁」が、テキストを超えた「二項対立」を形づくっており、その対立に受験生が注意を向けられるかどうかというのが、センターさんの「仕掛け」だと言えそうである。これはなかなか意欲的な出題だ。

そういう「流れ」が大まかにつかめると、これらのテキストは「読めた」感じがすると思う。評論の読解に際してよく言われる「二項対立」の読み取りの練習にはよい題材かもしれない。

 

選択肢の検討は紙幅の関係で、あまり詳細にやらないことにして、次回お送りする予定である。

共通テスト国語2023 (1)──評論①

さて、医学部受験生諸君、引き続き寒波による交通の乱れに注意して、受験行脚がんばってください。交通機関が遅れたら遅延証明書を取るくせをつけようね。

 

さて、今回からしばらくは来年度(2024)受験生に向けて、共通テスト国語2023の解説である。わたくしQ氏が国語講師なので国語ネタばかりになるが、医学部生に国語の苦手を訴える人が多いということから、国公立医学部志望の現高2生にも参考にしてもらえれば幸いである。

まず、全体の傾向。

共通テストも3回目を迎え、かなり問題が練れてきて、共通テスト固有のスタイルが定まってきた印象である。特に現代文や漢文で、似た話題について出題文(以下「テキスト」と呼ぶ)を2つ並べて比較させ、いわば「複眼」によるテーマの掘り下げを要求する、昨年度に続く形式である。

「Q氏的には」試行錯誤を通じて共通テストならではのスタイルが開発されてきた手ごたえがあるし、なかなかユニークな問題になっていて、念願の記述式を導入できなかった「挫折」を逆手に取った、面白い「入試改革」になっているのではないかと思う。

だが、建築における「窓」の役割について述べた今年度の第1問評論などは、テキスト自体がかなり難しいと感じられたのではないだろうか。テキスト1本をじっくり読み込ませていたセンター試験時代と異なり、1本が短くなったが、2本合計して全体としての分量はさほど変わらなくとも、精神的負担は大きいと思う。今年の受験生諸君は一読、「こういう『改革』はやめてくれ!」とひそかに叫んだのではないかと思われる。

 

だが「問題形式の変化でへこたれるようでは、読解力が弱い証拠!」などと肝心なところで昭和スポ根(スポーツ根性)路線になるQ氏に言わせると、目下の共通テストは、全大学入試の中でも、おそらく相当上位に来るような内容レベルのテキストを出題するようになっている。「共通テストの文章が読めれば国公立2次の文章は読めるし、私大一般入試の文章も読める」という点で、かなり「大学入試国語をリードしようとする意欲」を感じる出来になっているのだ。センター試験後半からそういう自負のようなものは感じられたが、例えば今年の共通テスト評論は1本の長さが短くなった分、密度の濃いテキストを出題していて、かなりの高カロリー食という感覚だ。

なんとなく、NHKが「攻めた」番組を作ってきているケースと似たような印象ですね。

 

だから来年度以降の受験生は、国語の文章読解の訓練だけならば、共通テストとセンターの過去問をみっちり読めばいいと思う。東大の現代文の方がよっぽど読みやすい(京大の現代文はややクセあり)。国公立2次と問題形式は異なるが、まずテキストの内容が理解できなければどうしようもないのだから、国語に自信のない来年度の医学部受験生諸君は、現代文の問題集などを手始めに少しやって読み方をつかんだら、もう夏くらいからセンターの過去問と共通テストの過去問を何十年分もやってればいいと思いますよ。他の教科と違って、いきなり共通テスト過去問が解けるというのが国語のよさである。

 

さて、では2023年度第1問評論をざっとレビューしよう。

 

まず、建築というテーマは馴染みがなくて意味が分かりにくかった…という人が多いだろう。馴染みがないテーマについての文章をしっかり読めるかを試されているのである。テーマに不案内だから読めない…では、現代文はだめなのです。

2つのテキストに共通して出てくるフランスの建築家ル・コルビュジエ(発音しにくい名前でしょう!)は、モダニズム建築の巨匠としてよく評論の題材になる人物で、日本では東京・上野の国立西洋美術館ロダンの「考える人」のあるところ)が作品として有名である。Q氏は近代建築には不案内だが、ル・コルビュジエといえば、フランク・ロイド・ライトなどと共によく建築に関する評論に出てくるので、「そのジャンルの代表的人物」という認識程度は持っている。

 

さて、1本目のテキスト(柏木博『視覚の生命力──イメージの復権』)は、いきなり話が正岡子規から始まる。ここで正岡子規を知らないと話が分かりにくく、読解の負担が増すだろうが、正岡子規「ぐらい」知ってますよね? 中学校の短歌や俳句の鑑賞に出てきますからね。

後半生をほとんど病臥して過ごしたがゆえに、その透徹した写生の眼が磨かれた──とか、夏目漱石の親友だった──とかの事実も知らないと、いきなり「だれ?その人」となるのだが、国公立大学を受験しようという皆さんは大丈夫ですよね??

 

この正岡子規に関する部分は比較的読みやすいが、病臥しながら外を眺めて過ごすしかない子規の書斎の「ガラス障子」「視覚装置」である(傍線部B)というあたりから、少し分かりにくくなってくるだろう。

子規の書斎の「ガラス障子」はそれほど積極的に「視覚装置」として設計されたものではないが、ル・コルビュジエの建築における「窓」はより意識的に、「デザインつまり表象」として計算され、「視覚装置」として作り上げられたものであり、そこにル・コルビュジエの建築家としての特質或いは戦略性がある…というような論旨である。

 

評論では「二項対立」に着目せよ、という指導はよくなされるが、作者の論旨を追うために、文中2つの対立項に着目することは大切だ。この第1のテキストでは、「視覚装置」としての「窓」の中に、①比較的場当たりに選ばれたものである正岡子規の書斎のガラス窓と、②意識的に設計され、演出されたル・コルビュジエの建築における窓の対立を見出せば十分である。

 

さて、こう読解してくるとまた長くなるため、次回につづく。

大学入試はどこへ行くのか(4)

共通テスト直前につき、はやく共通テストの話題に戻りたいのだが、キリが悪いため、本日まで推薦・AO入試の話で失礼します。

 

推薦・AO入試に対し「不公平感」を抱く受験生やオトナの言い分をまとめると、

 

①学力検査以外の判断基準での選抜は不公平(ルッキズムの影響や、事前準備が可能な書類を外注して作成する余地が生じることなども含む)

②高校の評価の客観性が保証されていない

③「努力は無駄、要領こそすべて」というメッセージを社会に発信することになり、モラルハザードを誘発する

④主に入学者を確保したい大学側の都合による改革であり、「偏差値の不当な釣り上げ」に過ぎない

⑤合格者の学力不足が目立ち、学びの場である大学の特性から考えて、入試の緩和は明らかに裏目に出ている

 

というあたりになろうか。

 

以前から述べている通り、わたくしQ氏は推薦・AO自体には反対ではない。推薦入学にふさわしい学生(優秀だが一発勝負に弱い)というのが昔も今もいるし、人材の多様性も大切だと思うからだ。

 

上記⑤に関して、大学の先生から「推薦・AO入学者と一般入試による入学者とでは、大学入学後の成績に有意な差は見られない」という報告もある。これは推薦・AO肯定側の意見に見られる主張である。

おそらく、調査すると実際にそうなのであろう。理由は3つくらい思いつく。

 

(1) これも日本の大学の伝統で、一般入試で猛勉強して入った学生が、入学後にサボったり、燃え尽きたりして急激に成績を下げる。これは昔から見られる問題である。一般入試の猛勉強の弊害として、反動で入学後の学生にメンタルヘルスの問題が起きやすいことが挙げられる。

(2) 推薦・AO入学生にはそもそも優秀な人がたくさん交じっているため、そういう人は入学後にも難なく好成績を挙げ、もともと頭脳明晰で問題意識もはっきりしているだけに、大学での学びによく適応する。

(3) 大学での学問は専門分野の学習が中心となるが、特に文系学部の専門科目には、高校までの積み上げ式の学習成果を必要とせず、大学に入ってから新たに取り組む形で好成績を挙げられるものが多い。積み上げ式学習が必要なのは必修の英語ぐらいのものであろうが、推薦・AO生には帰国子女など英語習得に有利な立場の人も多いから、うまくすれば高校他教科の蓄積不足が目立たない。また、理系学部は数学や理科で高校の蓄積がなければどうしようもないが、いまだに理系学部は国立大学志望者が主体で、推薦・AOの比率が小さい。

 

Q氏は、これら理由の裏に隠れた事態を重視している。

つまり、推薦・AO入試では「文系学生の地歴、理系学生の理科の圧倒的蓄積不足」が見逃されるということだ。

理系学生の理科は、入学後にボロが出て、場合によっては留年等でツケを払わされるから、まだよいかもしれない。が、文系学生の地歴の知識不足、下手をすると満州事変もソビエト社会主義共和国連邦も知らない(忘れている)ような学生がやすやすと大学生になる(しかもけっこう有名私大の)というような事態は、大学生の知的レベル確保の上では圧倒的に不利だと思える。地理歴史と関係の薄い大学の専門課程では、高校地歴の学習を通じて得られる知識や洞察を抜きに、無事に卒業できるのである。

地理歴史は、まとまった形では高校での学習機会が最後であり、そこでしっかり詰め込まなければ、一生無知なまま過ごせてしまう分野だ。文系の学生にとって、特に歴史は必須教養である。歴史の教養がない学生を、本来はやすやすと文系学部に迎え入れてはいけないと思う。

 

そしてQ氏の観察するところ、文系で推薦・AOを受験する学生は、とにかく地歴の学習から逃げまくるのである。一般入試の学生でさえ、公立高校などでは3学期になっても学校で日本史や世界史が終わらず悲鳴を挙げており、近現代史が手薄になる傾向は昔からの問題だ。そこに早期に大学合格を決められるような制度をむやみに導入すると、文系の学生は英語はともかく、地歴をまったくやらなくなる。後白河法皇とか、教皇のバビロン捕囚とか、ぜんぜん知りまっしぇん。

文系なんか、地歴を勉強しなくてよいこととなると、事実上、英語しか勉強する科目がなくなってしまう。文系受験では本当は地歴・公民を必須としてもいいくらいである。

そういう、劣化ウラン弾ならぬ「劣化受験生」を前に頭を抱える機会が増えているというのも、現場にいるQ氏の偽らざる感想である。まあ、こういう受験生も昔からいたのだが、地歴がおろそかだと志望校にはぜったい受からないため、第2志望校以下にしずしずと進学していたわけである。

 

その他、推薦・AOについてQ氏の意見をまとめておきたい。

 

(イ) 推薦・AOでは、やはり入学者の「学力」は必ずしも保証できない。だから、それを「主流」とするならば大学卒業=学士号授与の要件の厳格化が必要である。知識偏重が悪だと言うなら一般入試はそもそも廃止し、広義のAO入試の方に一本化するのが筋ではないか。AO入試が新たな(一般入試より緩やかではあっても)競争の場となる、ということである。

AO入試は学力本位ではなく人材の多様性を重視するのだから、AOの方を主制度とした方が多様性は確保されるし、AO入試で「学力の高さ」をアピールポイントとしてもよいわけだから、制度として柔軟かつ公正である。

が、大学の卒業要件が緩いままでは学士の知的水準が保てなくなり、社会全体に対して決してよい影響は与えないだろうと思われる。むろん国際競争力も落ちるから、容易に大学を卒業できない制度にすることが不可欠だろう。留年・放校当たり前という、医学部や欧米大学のような制度が望ましい。

(ロ) そうでなければ、推薦・AO入学者の比率はやはり入学者の2割、多くて3割以下に抑えるのが妥当だろう。5割、6割は多すぎである。或いは、一般入学者に特権を付与し、あらゆる点で「正攻法の一般入試で合格するのが本筋」という建前を残すかである。

 

大学としては、少子化を踏まえて経営基盤を強化する必要がある中、今さら(ロ)は維持できないということになるだろう。だったら、AO入試をもう少し全体に広げ、一般入試を廃止するくらいの大胆な改革に出る必要があるのではないか。あるいは、すべての入試にAO的要素と学力試験とを併せて課すか、である。

 

ゆくゆくは、だいたいその辺に落ち着くように制度変更が繰り返されるのではないかとQ氏は読んでいるが、現在、すでにモラルハザードは起きつつあるとも思っている。旧センター試験から共通テストへの(いささか中途半端な)変更も、このような大学入試改革の、ひいては日本社会の構造変化の大きな流れの一環である。

医学部受験生も「自分には関係ない」と言わずに、自分が所属している社会の変化はつぶさに見ながら、自分の進路を決めていってください。

 

次回からは共通テストまで、再び国語の話題その他をお送りしたいと思う。