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国語が分からないヒトはどうすればいいか

人間社会は、異なる能力を持つ構成員による分業によって支えられているが、情報化が進むにつれ、特に数学におけるセンス・才能が強調され、神話化される。 それが現代という時代だ。

が、数学とトレードオフ(両立不可能な)関係になりやすい国語に関しては、センス・才能がまったく関係ないのかといえば、これも多くの人が実感していると思うが、当然、ある。 間違いなくある。

言語的センス・才能と共感力・洞察力がずば抜けた人というのは、やはりごく少数だが、一定割合でいる。 小中学生を見ていると、勉強がからっきし苦手なのに、作文だけやたら得意な生徒がいる。 学生時代に劣等生だったと自称する人気小説家などは、これではないかと思う。

 

文学作品の鑑賞、さらに絞れば詩に対する感受性、解釈の力も、これはもう、ほぼ天性と言ってもいいのではないかと思う。 われわれ国語の講師は「詩が分かる」受験生に出会いたいし、そういう受験生と目と目を見合わせ、世界の深奥にかくされた秘密を知るもの同士の、ひそやかな微笑みを交わしたい。

… あんまりいないんだけどね。 だから今日も、半分あきらめながら詩の授業に従事。

 

「国語も才能」論から、悪いけど国語講師のホンネを言わせてもらうと、才能のないひとは、国語に関しても高度な分野はやはりダメダメである。 和歌の解釈とかは、できない人にはぜんぜんできない。

医学部を受験して合格するような知的水準の高いヒトでも、文学作品の解釈をさせると、幼児顔負けのトンチンカンさを発揮する人は、たくさんいる。 「登場人物の気持ちなんか分かるわけない!」と開き直る人が、最近、メディアで発言している著名人にも増えてきた。 

 

が、登場人物に対する一定の共感・感情移入を前提としないと、文学作品などはそもそも成立しないのであって、「自分が共感できないから他人も共感できない」というのは粗雑な決めつけである。 実際、時空を超えて、登場人物や作者へのある程度の共感が成り立つから、詩や散文というジャンルが存在しているのだ。 思えば不思議な現象である。

(作者が表現を意図した情緒などが、読者にそのまま伝わるか、というのはまた別の問題。 ある程度は伝わるから、伝えるジャンルが成立しているのだ、と当座は言っておく。 )

 

以前、あるテレビ番組で、著名な科学者に俳句を読んでもらうという企画があった。 日本を代表するような優秀なサイエンティストだったのだが、俳句はぜんぜん分からないらしく、いちいち字句にこだわり、いわば「ぶちこわし」な解釈をなさっていた。 あまりの大真面目なトンチンカンぶりに「詩が分からない人というのは、ここまで分からないものなんだなあ」と妙に感心したことを覚えている。 「不必要な分析」をするあたり、科学者らしいとも思った。

 

亡くなったある有名俳優が、生前、好んで色紙に書いていたのは、故・堀口大學訳で有名なフランスの詩人アポリネールの「ミラボー橋」の一節、

 

  日も暮れよ 鐘も鳴れ

  月日は流れ わたしは残る

 

の「月日は…」以下の部分だったという。

 詩の鑑賞(8)「ミラボー橋」アポリネール/堀口大學 – 幸田弘子の会

堀口大學訳には賛否があるが、一定年齢以上のファンには、この部分を愛唱する人が多いだろう。 セーヌ河の流れを見渡しながら、失われた恋を回顧するアポリネール絶唱は、「何となく高級っぽいブンガク的情緒」をよく満たしてくれる。

(わたくしQ氏も、初めてパリを訪れた際に、バタバタ走って真っ先にミラボー橋を訪れ、ドンとその上に立ってみた。 目に入ったのは割とゴミゴミした下町の風景で、ちょっと興ざめでしたね。 )

 

が、授業でこの一節を紹介すると、受験生の間に気まずい沈黙が訪れることが多い。

「ぜんぜん分からない」とのたまう人が、年々増えている印象だ。

もちろん「あ、いいな…」という受験生もいるのだが、もとより少数派の印象だし、分かる人は、何の説明をされなくても最初から分かる。「勉強」の必要などないのである。

絵が上手な人が、何の練習もなしにスラスラと、今にも動き出しそうなキリンの絵を描き、歌が上手な人が、さっき聞いたばかりの曲をその場で歌って、聴き手を感動させる──能力というのは、そういうものなのだ。 ない人には、ない。

 

ミラボー橋… わ、わからない! ただの橋では?」 とのたまう受験生に対し、ここでQ氏が「チミは国語の才能がないから、共通テストの国語はあきらめたまえ!」と突き放したらどうだろう。 心中、怒りと失望とがぐるぐると渦巻くかもしれない。

国語が得意な受験生はたいてい数学で苦しんでいるので、「チミは数学のセンスがないから、数学のテストはあきらめたまえ!」と言われるのに慣れ、いささかドMな心情に染まっていることが多い。 が、数学が得意な受験生はふだん否定的な扱いを受けることが少なそうだから、たまには「こんな詩も分からないの? だいじょうぶ? 熱測ってみる?」 とか言われるのも、いい経験かもしれないぞ。 知らんけど。

 

が、安心しよう。 大学受験の国語では、そこまで高度な「センス・才能」を要求されるようなことは問われない。 もっと基礎的なことができればよいのだ。 国語教育界は、受験生への要求を過剰にエスカレートさせるようなことはない。 過度な要求をしても、大部分の受験生には要求をクリアできない、ということが身にしみて分かっているからである(めちゃくちゃ失礼な言い方ですね)。

 

では、その基礎的なこととは何か。 「文章を論理的に読む」こと。 これ尽きる。

以下次回につづく。