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助かる唯一の方法─芥川龍之介「蜘蛛の糸」をよむ②

蜘蛛の糸」は、罪人を救う方法としてはほぼまったく機能していないことが明らかになった。お釈迦様ピンチ?

いや、全知全能と考えてよいお釈迦様が、そういうトンチンカンで、磯野サザエさんっぽい粗忽(そこつ)なことをなさるだろうか。おそらく、あり得ない。

 

蜘蛛の糸を垂らすという救済方法には、どのような意味があるのかを考えてみよう。

蜘蛛の糸は、生前、犍陀多カンダタがした唯一の善行である「蜘蛛の命を救った」ことに対応するから、因果の原理を明らかにしつつ、かれを救う道具としてふさわしい。

蜘蛛の糸はしなやかで強く、犍陀多を地獄から救うのには適しているが、多数の亡者たちの重量には耐えきれない。つまり、救済の道具として完全ではない。

 

おそらく、②も最初からお釈迦様の意図なさったことがらである。なぜなら、お釈迦様は全知全能だから。お釈迦様は犍陀多を救うために、わざと、蜘蛛の糸という不完全な道具をお選びになったのである。

そして、犍陀多の後から罪人たちがのぼってくるだろうことも、お釈迦様は予見なさっていたとしか考えられない。罪人たちの重量がかかれば、蜘蛛の糸が切れることも計算なさっているはずである。

 

また、蜘蛛の糸によって、お釈迦様が犍陀多以外の罪人も一度に救おうとお考えになっていた…とは考えにくい。こういう罪人への救済措置を、お釈迦様が日常的にとっておられるらしい様子からすると、因果応報の原理に基づき、別の罪人には別の救済手段を、お釈迦様はそのつど用意なさるのではないかと思われる。

 

だとすると、お釈迦様は、罪人を簡単に救済なさろうとは思っておられないのだという結論になる。切れやすい蜘蛛の糸を用いるということは、犍陀多を救うお考えはお持ちでありながら、同時に、犍陀多が真の救済にふさわしい相手かどうか、試しておられるというわけである。

 

では、犍陀多はどうすれば本当に救済され、極楽に至ることができたのだろうか。

物語の成り行きを踏まえれば、犍陀多があとからのぼってくる罪人たちに向かって叫んだ言葉、その言葉に表された心が、決定的にいけなかったことになるだろう。

「下りろ。下りろ」ではだめなのである。

 

ではどう思い、どう叫べばいいのか。「下りろ。下りろ」の反対を考えるとすれば、

 

「あなたたち、私よりも先に行きなさい。この糸は極楽に通じています。元はと言えば、お釈迦様が私の生前唯一の善行に免じて、垂らしてくださったか細い、しかし尊い蜘蛛の糸です。でも、これは私の救済のためだけの糸ではない。地獄の苦しみに日々耐え抜いている、あなたがた全員にとっての救いの糸なのです。私の命などもうよい。私はあなたがたのために、喜んでこの身を犠牲に捧げましょう。糸が切れぬよう、いま私が手を離しますから、あなたがたは1人ずつ極楽にお昇りなさい」

 

というような言葉を吐けば「正解」だったのだろう。ドラえもん出木杉くんみたいな解答だけれども。

自分だけ助かろうという欲を捨て、自分の身を捨てて他人を助けようという利他の心、慈悲の心を発揮できさえすれば、おそらくお釈迦様は犍陀多を救うつもりでおられたのではないかと推測される。それこそ、仏のこころだからだ。

お釈迦様の「テスト」の内容はおそらくこれで、犍陀多はそのテストにパスできなかったわけである。

 

だから、この物語から読み取るべき「テーマ」は「ダメな奴は最後までダメ」ではなく、「利他の心・他者に対する慈悲の心を持つことが最も大切だ」になるはずだ。

たぶん、この物語の教訓は「だいたいそれで合っている」のではないかと思われる。が、その肝心のテーマが読み取れない人は、生徒さんと一緒に読んでみると、非常に多い印象である。

 

文学作品に関しては、最終的には「テーマ」を読み取ることが大切で、そこが非常に難しいところでもあるのだが、いずれにせよ、まず最初にやることは「論理的に読んでいくこと」だ。

 

ちなみに、犍陀多が上記の「慈悲の言葉」を口にすることができたとしたら、かれはどうなったのだろうか。

 

①その言葉を口にしたとたん、犍陀多の身体は一瞬にして極楽にテレポートし、気がつくとお釈迦様の前にひざまずいている。

②犍陀多も救われ、他の罪人たちも蜘蛛の糸を伝ってみな極楽に至り、地獄の罪人全てに解放の日が訪れる。

 

「因果による救済手段を個別に考え、ひとりひとりに課題を与える」お釈迦様の方針からすると、②は安易には起こり得ないだろう。①の結末になることが予想される。

 

また、今回、再び地獄に落ちてしまった犍陀多はどうなるのだろうか。おそらく、二度と救済されないということはあり得ず、再び救済のチャンスがめぐってくるのではないかと考えられる。お釈迦様の慈悲の心というのは、そういうものだろうから。

何千年も、何万年もあとのことかもしれないが、たぶん再びテストが行われる。その時は、犍陀多は見事にパスできるかもしれないのである。受験生で言えば何千浪、何万浪の多浪生活。

悲観主義者の芥川は、けっきょくは救われない犍陀多に、心に闇を抱えた自分の姿を投影していたのかもしれない。犍陀多に、当時勃興しつつあった社会主義運動の投影を見る解釈も可能かもしれない。が、そういう解釈とは別に、犍陀多の未来に希望を見出すことは、物語の内容から決して不可能ではないだろう。)

 

以上、国語の場合も、数学に劣らず想像力や論理性が必要だ──ということを、医学部受験生の皆さんが何となく納得してくれれば、わたくしQ氏も浮かばれようというものである。

「論理的に読む」については、引き続き次回以降も取り上げてみよう。