「コスパ」「タイパ」を重んじる最近の受験生に、あまり悠長なことを言っていると怒られるかもしれないが、「ブンガク」作品の鑑賞の実例として、芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」を取り上げてみよう。
「蜘蛛の糸」はあまりにも有名な作品だから、読んだことがある人もたくさんいるだろう。芥川龍之介が1918(大正7)年に児童雑誌『赤い鳥』に発表した、かれにとって初めての児童文学作品である。
近年、研究によって「蜘蛛の糸」には原型となりうる似た内容の物語が複数存在することが分かっており、純粋な芥川の創作によるものではないことが知られている。芥川龍之介が、悪い言い方をすれば「パクり」の名人であることは、皆さんもすでにご存じかもしれない。
が、芥川以前の物語であるとなれば、なおさらこの話の「謎」を追及する楽しみが生まれる。
物語はお釈迦様のいらっしゃる極楽から始まる。お釈迦様が極楽の蓮池を透して下界をごらんになると、地獄には多数の亡者がうごめいている。中の1人、犍陀多(カンダタ)という男は、極悪非道の大罪人であるが、生前一度だけ、小さな蜘蛛を助ける善行をなしたことがある。お釈迦様は犍陀多を哀れみ、地獄にひとすじの蜘蛛の糸を垂らし、犍陀多がその糸をたぐって極楽に至れるようにしてあげるが──。
ご存じの通り、犍陀多は、同じく蜘蛛の糸を頼って自分のあとから登ってくる大勢の亡者たちに気づくと、蜘蛛の糸を独占しようと叫び声を挙げる。
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼつて來た。下りろ。下りろ」
そう叫ぶや否や、犍陀多のつかんでいた蜘蛛の糸はぷつりと切れ、犍陀多は再び地獄へまっさかさまに堕ちてしまう。
お釈迦様は悲しそうな顔をなさって、その場を立ち去られる。
──あまりによく知られたこの物語、どこか変ではないだろうか。
どんな極悪人でも、生前に1つは善行をなしたことがある。それはよい。慈悲深いお釈迦様がそのことを心に留め、悪人を救おうとなさる。それもよい。
因果応報、悪因悪果、善因善果。犍陀多が、生前、唯一命を救ってあげた蜘蛛の糸を使って、お釈迦様が犍陀多を救おうとなさるそのお気持ちも、理解できる。
蜘蛛を救ったのだから、蜘蛛の糸によって救われる。因果はめぐる。世の中はそういうものなのだ。ちゃんと納得できる物語の成り行きである。
が、犍陀多はお釈迦様の期待を裏切ったのである。せっかく救ってあげようとしたお釈迦様の慈悲の心を裏切り、またしても利己心をむき出しにし、蜘蛛の糸を伝って助かろうとする罪人たちを蹴落とそうとした。その、どこまでも克服できない我欲ゆえに、犍陀多はふたたび滅びざるを得なかった──そういう物語であろう。
わたくしQ氏も、むかしこの短編を読んだとき以来、そんなふうに「額面通り」受け取り、納得していた。
犍陀多はせっかく救済のチャンスを与えられたのに、それを棒に振った。がんらい極悪人だから、生前たったひとつの善行を見て救ってくださろうとしたお釈迦様のお心のありがたみも分からず、すべてを無にしてしまったのである。あわれな奴だ。
──かくして、この物語の教訓は何か? ときかれると、読者の中には、
「悪い奴はいつまで経っても心がねじけていて、ゆがんでおり、アタマも悪いから偉い人の好意を理解できず、けっきょく救いようがない」
と答える人が、けっこう多いのである。
「ダメなやつは性根から腐っているから、いくらがんばってもダメ」という教訓をここから受け取っている人は、かなりたくさんいるらしい。この物語を実際に教室で読んでみると分かる。
この考え方は、キリスト教でいう「予定説」というのにちょっとだけ近い。世界史でやるよね。
ダメな奴は何をやってもダメ。
でも、果たしてそうだろうか?
地獄に蜘蛛の糸を垂らした時点で、お釈迦様は犍陀多を救おうとなさっていたことは間違いない。罪人を救おうというお気持ちがなければ、お釈迦様はそんなことはなさらないはずなのである。だから、犍陀多はうまく行けば、ちゃんと救われたはずなのである。
が、一方で、お釈迦様が未来を見通す力をお持ちでないとも考えにくい。犍陀多を救おうとなさったはよいが、もしも、しなやかな蜘蛛の糸を地獄に垂らす、という方法をお取りになれば、
①救おうとした犍陀多だけでなく、他の亡者たちもやがてその糸に気づくこと。
②糸に気づいた亡者たちが、犍陀多の後から大挙してのぼってくること。
③そうすると、やがて糸が切れてしまうこと。
④糸が切れるのを防ぐために、犍陀多が他の亡者たちを排除せざるを得なくなること。
ぐらい、お見通しではなかったのだろうか。
が、お釈迦様が地獄に蜘蛛の糸を垂らされた時点で、①~④の事態が予見できたとすると、お釈迦様は最初から犍陀多を救えないことになる。③の事態に至れば亡者たちも犍陀多も地獄に逆戻りだし、④まで事態が進めば実際の物語通り、犍陀多は救済されずに終わる。
つまり、蜘蛛の糸を垂らすという方法は、最初から失敗する公算がかなり高く、犍陀多への救済手段として、まともに機能しないのだ。
ならば、お釈迦様は犍陀多を救う気など最初からみじんもお持ちでなく、助かる希望を一瞬は持たせておいて、後からもう一度地獄に突き落とすという「ドS」なことをなさって喜んでおられるのだろうか。
お釈迦様が「究極の善」でいらっしゃることを考慮すると、それもあり得ない。高校生くらいの人々ならば、冗談半分に「お釈迦様ドS説」などを唱えて喜んでいるかもしれないが、お釈迦様は、そういう俗っぽい存在ではいらっしゃらないのである。
ならば、この物語は何を語りたいのか。犍陀多はどうすれば本当に助かったのか。
いきなりな話題だが、次回につづく。