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ニッポン学歴社会②──学歴リベラリズムの構造

世の中に出ると、学歴の話題というのはたいへん微妙である。わたくしQ氏はだいたい避けて通る。が、とにかく気にする人はいるし、触れられると熱くなる人が多い話題である。学校歴の途中で挫折した人や、大学受験の失敗体験などをもつ人の中には、一生消えない学歴コンプレックスにさいなまれる人もいるし、いわゆる有名大学の学生の中には「逆学歴コンプレックス」にとらわれていることを告白する人もいる。クイズ番組などで有名な某T京大学の学生さんは、大学名を聞かれたときにいちおうT大です」と「いちおう」をつけるのだそうな。つけないと自慢しているように思われるからなのだろうか。

 

学歴にこだわる親御さんをもち、辟易したり、苦しんだりしている人も多いだろう。Q氏が観察するところ、学歴にこだわる親御さん自身が、学歴コンプレックスを持っている例がいちばん多い。或いは有名大学卒業者ばかりの一族に生まれ、自分も有名大学に進学し、そのまま有名大学出身者が多い環境に就職するなどして、その他の社会を知らない人。有名大学に合格するために、当の親御さんもそのまた親御さんからプレッシャーをかけられ続けた心の傷が裏にあることが多いようだし、均質な社会に暮らしすぎて、社会の多様な構成員に接したことがないことも大きいのだろうか、「有名大学を出て当たり前」というような「天然マウンティング」が増える。有名大学の定員と同学年の人数を比較計算すれば、有名大学を出ることは必ずしも「当たり前」でないことぐらいは、小学生でも分かるのだが。

代々医師の家系などというご家庭では、親御さんがこのパターンに見事にハマってしまい、お子さんがプレッシャーをかけられる例が多いようだ。「ほかの進路に目を向けてはいけない」というような親御さんからの圧力は、やはりどうしても不自然な精神的圧迫となって、お子さんにさまざまな影響を与える。Q氏の知人に自殺者が出た経緯は、以前のブログエントリーで述べた。

 

日本の学歴社会を話題にすると、海外事情に詳しい人から「海外の方がもっとずっと学歴社会だ。エリート校を卒業しない限り、高収入で社会的認知度の高いエリート的な地位には、絶対に就けない」という批判がなされる。それもごもっともだと思うのだが、Q氏が思うに、日本の学歴社会のいちばんの問題点はその「ねちっこさ、陰湿さ」にある。いじめはどこの国にもあるが、日本のいじめは一種特有のウェットな悪質さを持っている…というのと似た構造だと思う。

つまり、日本の学歴問題は、いじめ問題と関連させて考察すべきではないかと思われる。が、ゆるくエッセイ調で行く本稿では、当座はこの問題を深く追究しない。

 

一方、日本の「学歴論」を観察していれば誰でも気づく面白い現象が、

◎学歴エリートほど学歴差別を批判する

という「学歴リベラリズムである。

 

昭和の作家・三島由紀夫東京大学法学部卒)は「東大を出てよかったと思うのは、唯一、東大の悪口を言っても『ひがんでいる』と言われずに済むことだ」という意味の言葉を残した。三島の場合は素直に「学歴否定」とは受け取れず、一種の逆説的な学歴自慢とも解釈できる。三島の時代の東京大学には、正確に言えば「法学部(文Ⅰ)と医学部(理Ⅲ)絶対主義」が残っており(たぶん今も少しはある)、文学部や教育学部、工学部などの人が「東大の悪口を言っ」ても、文Ⅰや理Ⅲに入れなかったからひがんでいるんだ…と言われたはずだからだ。

 

が、SNSを駆使して情報発信する現代の学歴エリートの中には、かなり大真面目に学歴絶対主義を否定する人がいる。脳科学者の茂木健一郎氏はその代表だろう。先日、ツイッターで、偏差値ランキングによって区分された大学グループを通称で呼ぶことの弊害を指摘し、話題になっていた。

 

〇「日本の教育界の愚かなところはたくさんあるけれども、複数の大学をいっしょくたにして、『MARCH』だとか、『大東亜帝国』などということほど、くだらなくて失礼な話はないと思う。ぼくは自らは<<絶対に>>使わないし、使っている人に出会うと心の中で<<軽蔑>>している。」

〇「それぞれ独自のスクールカラーと誇りある伝統を持つ学校であって、それをなぜ予備校業界に適当にまとめてつけた語呂合わせみたいな名称で呼ばれなければならないのか、くだらなすぎて涙が出る」

〇「異なる歴史、校風をもつ大学をまとめて『MARCH』などというくだらない名称で呼ぶ文化を広めたの最低最悪の愚行と断ぜざるを得ない」

〇「『偏差値』とか『MARCH』とかは、話にもならないくらい愚かで低レベルの価値観だとぼくは確信していて、そのような軽薄な風潮がこの国を停滞させているとも確信している。だから、ぼくの抗議申し立ては義憤であって、この国を良くしたいというぼくなりの表現である。世界はもっと広い。」

 

これら茂木氏のツイートに対するQ氏の感想は次のようなものである。

 

お説はいちいちごもっとも。Q氏も「MARCHの英語はァ~…」などと、これら名称で大学を呼んでいたことを反省する。

…が、こういう「学歴リベラリズムはまさしく学歴エリート特有の意見で、一般人民には不可能な主張である。一般人民が学歴主義を否定すれば、それはたちまち「ひがみ」としてバッシングの対象となり、学歴主義の支持者をますます増長させる。

そして「いじめ」と同じく、日本の学歴主義は主唱者か誰か分からない不気味な草の根的ひろがりを見せているから、学歴エリートが高みから学歴主義を否定しても、

「そんなこと言ったって、ほんとうは学歴を自慢したいくせに。学歴主義を批判できるだけの学歴を特権として身につけていることが、逆に自慢の種なのではないか」

と、当のエリートの学歴主義批判発言自体が、巧みに「無効化」されてしまうのである。

 

学歴リベラリズムは、それを主張すること自体が「発言者の特権化」をもたらし、学歴主義を強化する発言と見なされ反発を食らう。複数の人が主張しているようだが、茂木氏の主張はナイーヴすぎるとQ氏は思う。Q氏も茂木氏の意見に共感するが、日本の学歴社会はもっとねっとりした気味の悪いもので、高学歴者のコミュニティでばかり通用するような素朴な学歴リベラリズムによって崩壊させることはできないように思う。

 

学歴主義とその批判は、政治的なリベラリズム保守主義というような話題にもつながると思う。かなり奥が深い問題なのである。

いくらでも紙数を費やしそうな話題であるため、ここで次回に切り替えよう。

(つづく)