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ニッポン学歴社会18──集団はバカである

さて、そろそろ受験生の皆さんの合否も出揃う頃かと思う。4月からの新しい生活に向けて準備に余念がない人もいるだろう。桜の季節でもある。高校生は卒業式を済ませ、友達と連れ立って私服でどこかに出かけたり、カフェで駄弁ったりしているのではないだろうか。わたくしQ氏もそんなことやってたね。

 

さて、そんな春に「バカ」などというネガティブな話題ばかりに触れるのはさすがに後ろ向きである。Q氏が言いたいことは「江戸時代の身分社会みたいな学歴社会は窮屈だから、何とかしろ」に尽きるのだが、論証とまでは言わずともエッセイ風に学歴社会について語るだけで、相当な紙数を必要とする。

 

そこで、学歴論のうち「高学歴バカ」については今回で終わりにして、学歴論そのものは、また思い出した頃に断続的に掲載することにしよう。

 

さて、高学歴バカは、「勝ち組」を意識した大学入学以後、「社会に甘やかされて、いつの間にかそうなってしまう」のではないかという仮説を、体験談を交えて述べた。

 

一方で「そうは言っても、高学歴者には謙虚で非常に優秀な人も多い」という意見も根強く聞かれる。しばしば学歴至上主義を補強するために使われる意見だが、この見解に妥当性はあるのかというと、確かに一定の真実味はあるというのが、Q氏の観察結果である。

Q氏はしょうもない「高学歴バカ」もたくさん見てきたが、文字通り人間として素晴らしい高学歴者、頭脳明晰でとても優しい、すてきな「いまだに出木杉くん」も、たくさん見てきた。

 

高学歴者には、驚くほど人格低劣な人もいる一方、まさしく「生き仏」のような人格者もいる。Q氏が今までに見た「生き仏」と思えるような人格者は、たいてい頭もとびきり良い人であった。「頭が良い」は、大変優れた人格者であることの必要条件ではあるが、必要十分条件ではないらしい。

 

実を言えば、有名(難関)大学の卒業生には、「いまだに出木杉くん」の割合もかなり多いので、いろいろな意味で助かることが多い。かれらは頭脳明晰なので、まさに「一を聞いて十を知る」吞み込みの速さであり、2割くらい説明すればすべてを理解して、こちらの意図をうまく実現するよう動いてくれることが多い。思いやりもあるから、微妙な心情までちゃんと忖度してくれる。物事の処理も速い

こういう優秀な人材は、企業が採用したくなるのも充分理解できるのである。こういう人々が身近にいて仕事を手伝ってくれると、何よりもラクなのだ。学歴フィルターの素朴な根拠というのは、ここである。

 

このように、有名大学卒業者は往々にして、個人としては甚だ親切で、重宝な人材でもあるのだが、たまに噂としてよく聞く事柄が、

「有名大卒業者は個々人としてはみな優秀で、よい人だが、寄り集まると豹変し、最悪の集団をつくる」

というものである。

 

これにも、Q氏は体験上、うなずきたくなる点が多い。高学歴「バカ」ではない人々も、集まると実際に「高学歴バカ」になってしまうのである。バッタが群れになると恐るべき災禍をもたらすように、高学歴者も「群れると最悪になる」特性があるのではないかという気がする。高学歴バカがバカになる理由はどうやら複合的らしく、「集団化によるバカ化」もそのひとつのようだ。

 

そもそも、人間自体が集団になると「バカ化」するというのは、心理学や社会心理学の分野では既によく知られた事実だ。個々人が物事に責任を負わなくなり、群集心理に流されて図に乗ったり、周囲の意見を過剰に尊重したりするようになる。その結果、誰も決断しなくなり、事態の推移にひたすら流され、結果の責任を取らなくなる。いじめや企業不祥事などは、だいたいこういう風にして起きるようだ。

 

集団化の弊害は、あらゆる人間集団に起きるようだが、高学歴の専門家集団でも顕著である。アタマが非常にいいはずの個人が、専門家の集団に所属すると妙に周囲の人の顔色を窺うようになり、みずから決断を下そうとせず、他人に判断を委ねようとする。かつて優しく親切だった人が、わずかな不都合を含んだ案件に対して必要以上に尻込みし、みずから責任を負って取り組みたがらなくなる。久しぶりに会ったら変に他人行儀である。周囲に対する忖度をめぐらすことに、その優秀な頭脳のかなりの部分を費やす。同じ専門家集団の内部では、儀礼が過剰になり、手紙の書き方や挨拶の仕方がどんどん複雑化していく。受験生諸君に覚えてもらいたい四字熟語で言えば「繁文縟礼(はんぶんじょくれい)である。

 

一般人がそれを実感できるのは、病院の医師から、他病院への紹介状を書いてもらう場面だ。今どき「~先生 机下」などという宛名書きの仕方を墨守しているのは、医師の集団だけかもしれない。礼儀を知る人間を弁別するためのコードを設定するのはよいが、そのような儀礼はしばしば有名無実化し、闊達なコミュニケーションの阻害要因ともなる。その種の儀礼を無批判に守ることが、どこかで精神レベルの自己規制に通じるのではないかという考えが、専門家集団に属する特権を手に入れた人ほど、頭に浮かばなくなるのであろうか。

 

ともあれ「船頭多くして船山に上る」が、高学歴者集団の中でもシッカリ起こっており、高学歴者はいったん設定されたルールをよく守るだけに、集団化によって起こる判断ミスの常態化や無責任化に、まったく歯止めをかけられなくなるのではないか、という疑惑が生じる。とびきり優秀な人材を集めているはずの中央省庁や大企業で、腐敗や不祥事が頻発し、しかも多くの場合に隠蔽工作が行われるというのは、この社会心理学的メカニズムによる、容易には避けがたい事態なのではないかと、Q氏は考えている。

 

さて、高学歴バカの集団による支配が、世の中を間違った方向に誘導してしまうのだとしたら、それを是正するにはどうしたらよいか…という問題提起に関して、Q氏は日本社会の特質に照らし、「外圧」と「下剋上を処方箋として提案した。いよいよ、その詳細を述べる段に来たが、Q氏が特に強調したいのは、下剋上」の動きを加速することの必要性である。

 

だが冒頭述べた通り、あまり長々と学歴論も飽きてくるので、この「レッツ下剋上!」の主張については、また満を持して、機を改めて述べることとしたい。

Q氏流学歴論Season1、長らくご清聴ありがとうございました。