オンライン医学部予備校

2023年度入試で医学部(東大京大)への合格を目指す全ての受験生をサポートします。

勉強は才能か

師走の声を聞き、毎日もだいぶ冷え込んできた。日本のかなりの地域で、窓を開けると見える山々も、頂が白く染まる頃合である。全国の医学部受験生諸君はそんな中、お元気で勉強を続けておられますか。

 

さて、11月と話題は打って変わって、医学部受験生にとっての国語の話。

わたくしQ氏が今までの指導歴から、経験則として導き出したことがらのひとつに「医学部受験生は国語が苦手」というのがある。

実際には、テストでは国語もそれなりにできる人がもちろん多い。特に難関大医学部を志望する諸君ならば、国語が大得意というような人も中にはいるだろう。

 

が、受験生に自己申告してもらうと「国語が苦手」という訴えが一番多い。次点が、やはり数理的な処理が得意な人が多いせいだろうか、「覚える科目」、特に英語や化学の苦手を訴えるケースだ。

医学部受験は、物理-化学選択で、数学・物理が得意な人が何かと優位な分野である。国語と、記憶重視の科目に苦手を訴える受験生が多いのは、何となくうなずける。

 

また別の話題であるが、受験生の指導をしていると、いろいろな科目の担当講師の先生がたと接する機会がある。

その中で、やはりひとつの経験則として、Q氏がひそかに感じていることがらのひとつに、「数学の先生は、担当生徒の数学の『センス』『才能』に関心を持ちやすい」というものがある。

もちろんすべての先生がそうではないが、多くの数学の先生と会話していると「だれそれはセンス・才能がある」という評価が、会話の中に比較的よく出てくることに気づく。あくまでも「センス」「才能」という言葉を聞く頻度が、他教科の先生との会話におけるよりも多い。

歴史の先生と話していて「誰某は歴史のセンスがある」という話題には、まずならない。化学の先生と話していても同じである。

 

ひるがえって生徒を観察していると、確かに数学の「センス・才能」がずば抜けている、という人は、数少ないが一定割合でいる。大都市圏の有名高校などには絶対数が多いだろう。また面白いことに、だいたい字があまり綺麗でないとか、ノートが雑だとか、数学・物理だけ成績がずば抜けていて、他科目とのアンバランスが目立つ、とかの経験則もあるような気がする。

数学が得意な受験生というは、他の受験生の憧れの的だが、数学が得意な人は他科目で苦しんでいる例が非常に多い。だから、総合点で同じくらいの順位にいる人ならば、絶対的優位にある受験生などというのはいないのである。諸君安心したまえ。

 

が、この「センス・才能」伝説というのに、Q氏はいろいろな観察と経験を経て、かなり疑問を抱くに至っている。

数学のセンス・才能に恵まれた人には、他科目で異常な苦戦(文字通りの異常。「なんでこんなことも分からないの」レベル)をする人が多いし、数学以外の科目が得意な人についても同じである。ひとつできれば、やはり他ができない。科目間にトレードオフの(両立しない)関係があるものが多いのである。同じ文系と言われる、英語と国語の間にもトレードオフが見られる。

 

恐らく、人間の脳容積がだいたい一定であることが、分野間の才能の偏りの原因だろう。脳細胞はできれば無限に増殖したいのだろうが、頭蓋骨の中の空間には限りがある。そこで、他の能力と比べて数理的な処理の力ばかりが発達した人も出てくるし、もっぱら言語を操ることに長けた人も出てくる。だからこそ社会に分業が成立し、分業によってますます社会の規模が大きくなり、さらに社会化が進んでいく…人間の進化のシナリオは、だいたいそんな感じだったのではないだろうか。

 

だからこそ、多科目間の総合力を試される限り、「才能」で絶対的優位に立てる人の数は少ない。もちろん、試験のたぐいでは全般的に知能が高い人が優位にあることは間違いないだろうが、その人でさえ、似たような実力の持ち主の間では油断できない。

だから、長期間の準備が必要な、内容面でも多岐にわたることがらについて「センス・才能」を極端に強調することも、Q氏にはワナだと思える。

才能に関しては、やはりひとりひとりが異なっており、異なっていること自体に意味があるのだ。

 

では、国語が苦手な医学部受験生(特に国立志望者)は、少なくとも共通テストの国語をどう乗り切るか?

今日はもう紙数が尽きたので、次回につづく。

一瞬を生きぬく

12月である。浪人生も現役高3生も、受験生の皆さんは本番を間近に控え、緊張が高まりつつある時期だろう。受験生が経験する11月のスランプは、気温が低めで安定してくる12月になると、経験上はだいたい解消に向かっていくもののようである。だから受験生諸君、多少は安心しよう。新型コロナもインフルエンザも流行のきざしを見せてくる頃合ではあるが、あとひと息、何とか乗り切ろうぜ。

 

さて、2022年11月は、ブログ担当のわたくしQ氏の初お目見えということもあり、受験生心理の話題を「テレフォン人生相談」的に続けてきた。

が、話題が12月に少し残ってしまった。「最後の心理的ハードルを、いかにエイヤッと越えるか」である。

 

これが最も難しい「一瞬」で、できない人にはとうとうできない。また、人生の中でも「できない時期」とできる時期がある。そして、できる人にも「毎回できるとは限らない」。毎日、そのつど新しくやり直さなければいけないことなのである。

誰にでも簡単に「これ」ができるのなら、そもそも人類に悩みなどないはずである。それくらい「物事に取りかかるための、最後の心理的ハードルを越えること」はむずかしい。

 

万人にそのまま当てはまる解決法はないに等しいわけだが、やはり「鼻をつまんで薬を飲む」「目をつぶって飛び降りる」が、もっとも実践しやすい対策なのではないかと思う。つまり「勉強に取りかかる一瞬だけ、思考をマヒさせ、なるべく考えずに身体だけ動かす」ことだ。

教科書や参考書、問題集を手に取り、開く。筆記具を握る。その瞬間だけ、とにかく目をつぶってやるのである。

 

参考書を開いてしまいさえすれば、こんどは「閉じることがめんどくさくなる」

「勉強が始まっている状態」をいったん作ってしまえば、こんどは逆に「やめるための物理的・心理的ハードルが発生する」ことを利用するのだ。

おそらく、これしかないとQ氏は考えている。

 

人間は惰性の生き物である。それは、受験生諸君も痛いほど知っているのではないか。自分はまだ本気を出していない──そう念じながらゴロゴロして「無駄に」過ごした時間は、もう、2度と帰ってこない。

が、惰性の生き物をやめることは恐らく永遠に不可能であるのに対し、惰性の生き物であるという習性をうまく逆手に取れば、不可能に思えた「習慣づけ」もできるらしいのだ。

現に「1万時間の法則」を乗り越えて何らかの高度な知識や技能を習得した人は、たぶん全員、学習や実践を習慣化できた人であるはずだからである。

 

そして、猿回しのニホンザルの調教が、かつてのように暴力や強制によっては行われなくなったのと同じく、われわれ全員が「心の中の(サボろうとする)ニホンザルを飼い慣らす」ためには、もはや他人からの強制ではなく、人間の習性に合った自己調教術が必要なのである。

そしておそらく、ここで話は再び三たび「余計なことを考えずに、とにかく取りかかる」に戻ってくる。

 

考えず、鼻をつまんで、とにかく水に飛び込む。

飛び込んでからは無心に泳ぐ。すなわち、勉強を始めてからは集中して考え、あるいは作業に没頭する。

問題は一瞬なのだ。一瞬の透明な膜を突き破りさえすれば、あなたには生き残りの途が見えてくる。

 

考えるための思考停止。感覚を全開にするための一瞬の麻痺。逆説めいてくるが、皆さん受験生だけでなく、ビジネスパーソンにも、家事従事者にも、リハビリ中の患者にも必要なことは、これではないかと思う。

 

そのために、ただただ他人に尻を叩いてもらうのでなければ、自分を洗脳するしかない。

考えることとは、あらゆる洗脳を逃れて自由な境地にたどり着くこと、絶えず脱洗脳を繰り返すことだと言える。

が、脱洗脳のために自己洗脳をおこなうことが、まず必要になるのだ。なんたる矛盾。

勉強は別にめんどくさくなく、始めてしまえば楽しく、いずれにせよ大したことではない。単なるひまつぶしに勉強でもしてみるか…そんな風に、自分をだませた人間が勝ちだということだ。

 

繰り返しになるが、一瞬。一瞬なのだ。その一瞬が、皆さんの命運を握っている。

かく言うQ氏も、読んでくださっている皆さんのかなりの部分よりは長いだろう半生を通じて、多少はこのカラクリが分かってきた感じがしている程度だ。むずかしいと感じる人には、習慣化は非常にむずかしい。Q氏にもむずかしかった。

 

料理などの家事をするにも、この習慣化が絶対に必要だから、心理的な抵抗が少ない勉強以外の事柄で何か習慣化を体験し、「成功体験を得る」とよいのかもしれない。スポーツやダンス、楽器などの習い事で一定の成果に達したことのある受験生は、習慣化がさほど苦にならないかもしれない。日本で「体育会系」が偏重されてきた原因のひとつに、よく言われるチームワークへの適性のほかに、スポーツが身体の習慣づくりを基礎としているために、スポーツ選手が、どの分野でも必要とされる習慣化になじみやすいことも挙げられるだろう。

 

さて、「ラスボス」である心理的ハードルの越え方については、まだまだ話題は尽きない。

だが、一般論ばかり書いてもいられないだろう。リアルタイムで読んでくださっている皆さんには、そろそろ大気圏ならぬ、受験シーズン突入の頃合である。

 

あいにくなことに、Q氏は基本、文系担当だ。そこで次回から、医学部受験生が苦手としやすい国語の話題を取り上げたい。乞うご期待。

心の敷居は低いほどよい

勉強が「めんどくさく」ならないように、物理的なハードルを下げる工夫は絶対に必要だ。教科書や参考書をちょっと取り出すことさえ、人間はめんどうくさいと感じるものなのである。

参考書のカバーや帯がカバンの中で折れ曲がっただけでも、何となくうっとうしい感じがするものだ。帯は外してきちんと折り、しおり代わりにページに挟みこむ。折れ曲がったカバーがピラピラと暴れないよう、書店で買った時にかけてもらったカバーや、包装紙などでさらに上から覆ったり、塗装のときに使うマスキングテープをホームセンターで買ってきて、折れたカバーを表紙に貼りつけたりする(マスキングテープは、はがしたい時にすぐはがすことができ、ビニルコートされた表面なら跡も残らないので便利だ)

 

だが、物理的ハードル以上に、心理的なハードルを下げることが大切で、なおかつ難しい。

 

そもそも、なぜ勉強を先延ばしするのか。いくら物理的ハードルを下げても、最後に「勉強に取りかかるための『一瞬の心の飛躍』がどうしても残っており、それをエイヤッと飛び越えないと、そもそも勉強に着手さえできないことに、受験生諸君は気づかないだろうか。

この「最後のジャンプ」が心理的ハードルである。物理的ハードルを下げて、下げて、次々と飛び越えてきた末に、最後にこの心理的ハードルが待っているのである。

(関係ないが、この「最後に待っている大物の敵」を「ラスボス」と呼ぶなど、ゲームやマンガ・アニメなどのサブカル用語を当たり前のように用いて一般大衆向けの解説をする人の割合が、さいきん激増している。

 が、わたくしQ氏をはじめとして、家庭用ゲーム機普及以前に人格形成をした世代も、世の中にはまだまだ現役で残っている。

 人間関係を、いきなりドラゴンボールやワンピースの登場人物にたとえて解説されても、ドラゴンボールの時もワンピースの時も、もう大人になっていて読んでいない・見ていないので、Q氏には残念ながら分からない…改めて読んでいる時間も、見ている時間もないし。

 「懐かしい」の意味も込めて解説に使うのなら、せめて科学忍者隊ガッチャマン』『サイボーグ009あたりまでさかのぼってもらえないものか。歳がバレる…)

 

そして、この心のハードルをよいしょと飛び越えると、道はもうなだらかである。あなたは既に「勉強を継続できる人」になっている。あとは単純作業でも、じっくり取り組む思考でも、なんでも続けることができるのだ。

そしていったん勉強をやめても、再び取りかかる際に、いつも心のハードルをひょいと飛び越える習慣さえつけば、毎日の勉強を苦もなくこなせ、あなたはどんどん目標に近づいていく。

この「一瞬の心の飛躍」「最後の決心」が、実はいちばん大きな障害なのである。これを克服できれば、勉強は続けられる。

 

この「最後の決心」は、勉強の場合にだけ越えなければならないハードルではない。人は、歯を磨くのにも、お風呂に入るのにも、ゴミ袋をゴミの集積場に置きに行くのにも、この「最後のハードル」を越えている。

受験生は家でゴミ出しを担当していないかもしれないが、ゴミ出し当番のお父さんが「最後のハードル」を越え損ねたために、ゴミの日にゴミ袋が家に残ってしまうことはままある。出勤や何かの外出のついでに、ゴミ袋をただ手に持って玄関を出ていくだけなのに、それをやらずに終わってしまう日があるわけなのだ。

 

だからこそ「勉強の習慣化」の中でもっとも手ごわいハードルは「最後にちょこっと決心すること」だ。

そして、勉強という物理的・精神的作業が本来かなり大変なものであるだけに、最後のハードルをひとつ越えることさえ、なかなかむずかしい。

けっきょく、

「苦い薬を、鼻をつまんで飲み下す」とか、

「高いところから、目をつぶって飛び降りる」

とかの場合に似た「感覚を一瞬、麻痺させる」試みが必要になってくる。

 

毎回、高い塀の上から目をつぶって飛び降りているうちに、飛び降りること自体は、あまり大したことと思えなくなってくる。よその人が見ている分には「よく、あんな大変なことができるな」と思われるようなことを苦もなくやるには、そのような「慣れ」が必要だ。そして慣れるためには、最初に「自分をだまして、とにかくやる」ことしかない。

この「一瞬」なのである。最大の問題は。

 

さて、11月中で「勉強を継続する上での悩み」の話題を終える予定であったが、すこし延びてしまった。次回につづく。

T大生はリビングで勉強している?

皆さんは覚えているかどうか、一時期「T大生はリビングで勉強している」という説が流布し、リビングのテーブルでの勉強はかなり一般化したようだ。

何でもかんでも「T大生は…」と始める昨今の風潮は、わたくしQ氏にはかなり疑問だが(そもそも、T大生が見世物みたいで気の毒である)、リビングでの勉強は確かに「すぐに勉強にとりかかれる」物理的な工夫のひとつと言えるだろう。まず勉強部屋に行かなければならないのでは、そのために歩く数メートルの間に気力がなえるし、専用の勉強部屋は散らかりやすく、人によってはカオスになりがちだ。

昔の、そのまたさらに昔は個人の勉強部屋などなく、学校に通う子供はリビングならぬ「茶の間」でミカン箱(木箱の時代ね。段ボール箱ではなく)を机代わりに勉強していたのだから、リビングでの勉強は先祖返りとも言えるかもしれない。

 

リビングでの勉強には、

「雑音への耐性ができ、集中力のコントロールがうまくなる」

「リビングで過ごす家族との一体感から、安心して勉強できる」

「家族に監視してもらうことで、怠け対策になる」

「休憩⇔勉強の切り替え時のタイムラグが小さい」

などの効果も考えられる。

家族がテレビなど見ながら自然に過ごしているかたわらで勉強するわけだから、よほどの集中力がないと、気が散ってしまって勉強にならないだろう。成績優秀者はリビングで勉強している率が高いという説が本当ならば、成績優秀者ならではの集中力の高さから、リビングの環境ノイズが気にならないのかもしれない。

また、リビングで勉強するには家族の仲が比較的よいことが条件となるだろうから、リビングで勉強できるということは、心理的安定感があり、無言のうちに受験生をサポートできるご家庭なのだ…ということかもしれない。

 

Q氏も、自分がリビング勉強派であるせいもあり、担当した生徒さんの「リビング勉強率」をざっと調べてみたことがある。

統計ベースには乗らないものの、確かに成績優秀者のリビング勉強率は高いように思われた。リビングで勉強しているから成績がよい、ではなく、成績のよい人がリビングで勉強しているというケースを、かなりひんぱんに見聞きする。

ストレスを感じながら勉強部屋で缶詰めになっている受験生諸君。この際だから、リビング勉強に切り替えてみてはどうか。何かが変わるかもよ。

 

さらに物理的ハードルの話。

やや古い話だが、Q氏は受験生時代、あるいは成人してからも、習得の必要からみずから英語を重点的に学んでいた時代は、古本で紙の英語辞典を安く、何冊か仕入れ、家のなかの自分がよく過ごすスペースに、すぐ手が届くように点々と置いておいた。

 

現在は紙辞書をまったく使わない人もいそうだが、紙辞書は慣れれば電子辞書に負けず劣らず速く引ける。「紙辞書はめんどくさい」とか言っている人は、昭和脳のQ氏から見れば、紙辞書を引くという「かつて、少しでも勉強をする人なら当たり前だった」基礎訓練が足りていないように思えてしまう。

また、紙辞書には「通覧性」があり、この通覧性が学習に大きな効果をもたらすという話もある。紙辞書では、引く過程で、同じページに載っている目当ての単語以外の語句が目に入り、電子辞書より記憶に残りやすいという研究結果があるようだ。

そのスグレモノである紙辞書を、ちょっと思いついた時にすぐ引ける位置に置いておけば、英単語を調べるのがあまり苦にならなくなる。いちいち本棚から取り出したり、元の位置に戻したりしなくてもよい。小型辞書を選べば、紙辞書の欠点である重量も、多少は気にならなくなる。

 

その調子で、トイレにも、風呂にも辞書を置いておく。辞書によって単語の解説に特色があるから、すべての場所に異なる出版社の辞書を置いておき、自然と読み比べられるようにする。

テレビや映画を見ていて意味が分からない英単語が出てくれば、ソファから手を伸ばし、すぐに紙辞書を引く。Q氏は自身の勉強の際には、そういうことをなるべく心がけた。もちろん、辞書を引くのが面倒にならないように、外箱や帯は最初から外しておく。極力「めんどくさくないよう」工夫し、まず、英単語を調べるための物理的なハードルを下げておくのである。

今の皆さんはスマホかもしれないけれど、スマホは脳によくないという説も次々出ている。スマホ依存はけっこうヤバいぞ。生涯で受験勉強の時くらいは、紙辞書を見直すとよいかもしれない。

 

物理的な工夫は、ほかにもいろいろ考えられるだろう。100円ショップで売っている、じょうぶな布製のバッグに、教科書や参考書・問題集・ノートを科目ごとに分けて入れる。化学ならば化学の袋を、英語ならば英語の袋だけを持ち出せばいいようにし、マクドナルドなどにも持って行けるようにしておく。どの袋にも個別に筆記具を入れ、外出には必ずどれかの袋を持っていくようにすれば、外出先でもすきま時間を使って、必ず何らかの科目の勉強ができる。

現役生は、学校に持っていく大きなカバンの中で、やはり中袋を使って教科書や参考書を小分けにしたり、ブックバンドでまとめて扱いやすくしたりするのもアリかもしれない。ブックバンドをいちいちほどいたり、かけ直したりするのは手間を増やすようだが、教科書や参考書をシステマティックに扱えて、いちいち探したり取り出したりする手間が省けるのなら、差し引きでプラスの結果になるかもしれない。

日本の伝統に敬意を表し、ふろしきを使って小分けにするのもよさそうだ。

 

ともあれ、まずは勉強のハードルを物理的に下げる。なるべく「めんどくさく」ないようにする。そして、取り出したものを元の場所に戻しておくことだけ心がける。少しは勉強しやすくなるのではないだろうか。

このへんで、また次回につづく。

ハードルは上げるのではなく、下げるもの

 勉強は、習慣化しないと量をこなせない。定量をこなさなければ、あなたの夢、あなたの青い鳥はたちまち手許から飛び去り、二度と帰ってこない。習慣という女神様に気に入られなければ、あなたは人生のスタートラインにも立てないのかもしれない。

 しかし、女神様に気に入られるために、毎日、地獄の苦行を重ねなければならないのではないか…と悲壮な覚悟にうち震えている人は、ちょっと待った。

 あまり深刻に考えない方がよい。習慣化とは、やることのハードルを上げることではなく、ひたすらハードルを下げることなのである。

 

 たとえば、勉強を勉強部屋で、しかも自分の机に座ってやらないとできない「習慣づけ」をしている人。家に帰れない間はどうするのか。帰っても、リビングで食事をしている時はどうするのか。お風呂に入っているときはどうする。机以外で勉強できないのなら、机に座れない時間はいっさい勉強に使えなくなる。無駄なすきま時間が大量に発生してしまう。

 

 また、参考書をカバンの奥底にしまいこんでいる人。英単語は必ず電子辞書で調べることにし、しかもその電子辞書を大事にケースにしまっている人。分からないところを最近はネットで調べているが、スマホタブレットをいちいち取り出し、電源を入れ、検索する文字列を逐一入力したり、たまに充電したりする手間をかけている人。問題集をきれいに使いたいから、新品のときの帯をまだつけている人。分からなかったところに付箋を貼る習慣があるが、その付箋がカバンの底のあちこちに散らばってしまっている人。

 これらはすべて「勉強を始めるまでの物理的な手間を増やす習慣」である。

 

 人間は、ちょっとでも「めんどくさい」と思ったら、もうやらない生き物だ。芸をさぼりたがる猿回しのサルと同じ。受験生諸君も、「いざやれば簡単なのに、何となくめんどくさいから、もう何か月もやっていないこと」の1つや2つ、必ずあるのではないか。メールやラインの返信とか、部屋の片づけとか、締切りが迫った懸賞の応募とか。アイスの箱のマークをせっせと集めて海外旅行プレゼントに応募する予定だったのに、切手を買うのがめんどくさくて締切りを過ぎてしまった…とか。

 切手ぐらい買えよ…という。でも、いざとなるとやらないんだよね。

 

 懸賞の応募は忘れても人生にあまり影響しないが、「めんどくさいから勉強をやらない時間」の蓄積は、勉強の絶対量をかせがなければならない受験生の首を、確実に絞める。

 だからこそ、極力「勉強するのがめんどくさくない」環境を作ることが必要なのだ。思いついた時に、いつでもパッと勉強にとりかかれる態勢づくりである。

 

 紙1枚の差であっても、勉強を始めるまでの物理的なハードルが存在するのなら、それを取り除く。勉強するポジションにすぐ着けるようにする。勉強に使う道具は、サッと出してサッとしまえるようにする。

 

 やらなければならないことを「先延ばし」する心理については近年、さまざまな医学的・心理学的知見が積み重ねられており、あまり単純な現象でないことが分かっているようだ。

 だが、勉強に取りかかる前の物理的ハードルを下げることは、勉強開始を「先延ばし」する癖に対して、それなりに効果があるのではないかと思う。物理的ハードルを下げることは、即、心理的なハードルを下げることにつながる。

 

 …というところできょうの紙数が尽きた。物理的ハードルを下げる工夫については、また次回。

習慣こそ救いの神

勉強は、絶対量をこなさないと意味がない。よく、異常に知能が高くて、授業以外ほとんど勉強せず、サッカー部のレギュラーとして活躍しながら鼻歌交じりに難関大学にストレート合格する受験生の神話があるが、一般受験生にはまったく参考にならない。身長2m,体重140kgのプロレスラーがツキノワグマ素手で戦って勝った、とかいう話と同じである。

単なる仰天ニュース。すごい話だが、真似する意味はないし、そもそも真似できない。そういう伝説の受験生は、あなたにとってライバルでさえない。宇宙人かヒグマか、どちらかである。

宇宙人やヒグマのみなさん、正体をばらしてしまってごめんなさい。あなたがたは勝手に、犯罪以外の好きなことをやればよい。わたくしQ氏も応援します。

 

が、ごくごくフツーの、「なんで私が某大に?」とかの広告を真に受けてる受験生、そこのあなたは、ある程度の量をこなさないと合格水準には達しない。問題の「1万時間」は、医学部に合格してから、医師としてひとり立ちするまでには必要だろうが、受験勉強の段階では、もっと少ない時間でこと足りるのではないかと思う。

しかし、いずれにせよン千時間…などと、物理的に測定可能な一定量をやることは避けられない。個人差をうんぬんするのは、そのあとの話だ。

3,000時間で受かったか、2,700時間で受かったか、はたまた3,500時間かかったか──という差が、受験における個人差である。それを500時間しか勉強していないのでは、ぜったいに受からないと断言できる。

受験において、奇跡はほぼまったく起きない。

 

ひえ~きびしい~(泣)。

だからこそ、受験生は勉強の苦痛を減らす必要があるのだ。つらくない方法でやらないと、勉強時間を稼げない。これは死活問題である。

そのためのキーワードが、今まで何度も出したものの、なかなかその中身に話が進まない「習慣化」だ。勉強の大変さ、苦しみを救ってくれるのは、この「習慣化」をおいてほかにない。習慣こそ優しい女神さまなのである。

 

「勉強が習慣化している」イコール「勉強が苦にならない」と言いかえてよい。

以前触れたように「心しずかに、鼻歌を歌いながら勉強できるようにすること」「勉強することが苦にならないようなコンディションを作ること」が、習慣化の条件である。そして経験的には、条件さえ整えば、習慣化は、ゼロからでも3ヶ月程度の期間があれば可能だと思う(今年は間に合わないか…?)。

 

習慣化の条件を手短に挙げておこう。

 

①勉強を苦にしないこと。勉強に対する心理的ハードルを下げること。

②勉強しやすい環境を作ること。勉強に対する物理的ハードルを下げること。

 

ともに「ハードルを上げる」ではなく「ハードルを下げる」ことが大事だ。

これを自然にやっている人には、改めて言うことはない。できていない人は、この機会にぜひ、自分の勉強に対する態度を見直してほしい──などと偉そうな顔をしておく。詳細次週。

1万時間の法則

作家・三島由紀夫が東京・市ヶ谷の自衛隊東部方面総監室で割腹自決を遂げてから、きょうで52年。三島の霊は現在の「日本」をどう見るか。

ちなみにこう書くわたくしQ氏は、右でも左でも上でも下でもタテでもヨコでも何でもない。ナナメですらない。無指向性キャラクターとして、虚心にブログ画面に向かっております。

 

さて、前回あえて「勉強は量」と提言した。Q氏のこの提言は、おそらく時代の風潮に逆行するものだろう。

この「『量』宣言」を「昭和脳」と馬鹿にする若者たちよ。ならば、代替案を示してくれないだろうか。Q氏も切に知りたい。「量」が本当に不要だと分かれば、Q氏はすぐにそちらの派閥に乗り換えることを約束する。君子ならずとも豹変す。

 

「1万時間の法則」をご存じだろうか。著述家マルコム・グラッドウェルが提唱した経験則で、その道で一流と呼べる人物は、知識や技能の習得におよそ1万時間をかけている、という内容である。同じプロでも「あまり大したことない」レベルの人は、技の習得にかけた時間も1万時間に及ばないという。

1万時間といえば、1日3時間を費やすとして、まったく休日をとらなくても9年と1か月半である。平日は1日5時間、土日は10時間ずつ勉強し、やはり休みを取らないとすれば、4年と3か月半かかってようやく1万時間。いずれも、1万時間を達成する前に過労死する危険がある。

この「法則」は科学的なものではないため、個人差が考えられ、それほど厳密なものと受け取る必要はないと思う。が、「とにかく膨大な時間を費やさないと」高いレベルの知識・技能は習得できないというのは、本当だろう。

…ビビる話だよね。Q氏もビビる。

 

…が、なぜビビるのかというと、この1万時間を「やらされる」としたら地獄だ…と考えるからだろう。

Q氏の見るところ、わが同胞・日本人には、練習をいやがる昔の猿回しのサルに似て、「放っておくとサボる」賢さ(ズル賢さ)があるように思える。あるいは国土が狭いことと何か関係があるのか、「自己の利益を最大化したがる」利己的な人が多い印象だ。

 

だから、昭和の運動部に見られるように、「鬼コーチが常に目を光らせ、叱咤し、時には体罰を加えないと」、本気で何かに労力を割こうとしない。言わないとやらないから、言う方はどんどん厳しく暴力的になるし、言われる方はいじけ、後ろ向き・受動的になり、ますます「言われないとやらない」習慣が身につく。互いの信頼感など、もちろん育たない。

日本の旧陸軍では、農村出身の非エリートである下士官が、暴力で兵を「鍛えて」いた。その手法は陸軍で急に始まったものではなく、ある程度国民性に根ざすものではないかとQ氏は疑っている。だから、「叩かれないとまともに動かない」人がこの社会にはたぶん非常に多いし、そうでない人も、「何かをやらなければならない」と言われれば、即「…叩かれる!」と恐怖の連想をするのだと思う。

 

「量」を他人から強制されてイヤイヤこなしていたのが、おそらく皆さんの嫌いな「昭和体育会系」の正体であり、それは少なくとも帝国陸軍から連綿と続く「伝統」だ。この「他人からの強制」を拒否したい気持ちはQ氏にもよく分かるし、Q氏自身も今までの半生、いろいろなところで「昭和体育会系的」圧力にさらされ、ずいぶんくやしい思いもしてきた。自分も少しはその中で生きてきた「昭和体育会系」を、むろん全面肯定はしていない。

が、もし体育会的強制がないのなら、受験生諸君は誰からも何も言われないところで、みずから進んで黙々と「量」をこなさなければならないのである。

…できるか?

 

何しろ「あの」膨大な教科書の内容を、どこからどう聞かれても答えられるようにしないと、医学部には受からないのだ。志望校の英語長文のレベルを見て、それをすらすらと読めるようになるのに、どれだけの分量の長文読解演習が必要か、想像できているだろうか。

ン十年もやってるわれわれ講師がチンタラと読んでも、毎回「かったるいなあ」「お金もらわないと、こんなのめんどくさくて読めないよ」という分量・水準の英文が出題されるのである。センター時代の国語には、もう20年近く古文を教えているQ氏も、古文を時間内に読みきれない「伝説の年度」があった。

 

「敵」がそういう、意図的なトンデモなさで攻めてくるのであれば、こちらはやはり、どういう方法であっても一定の「量」をやって対抗するしかない。絶対的な「量」をやり込んでいない受験生は、もう、これは落ちても仕方がない、と観念すべきなのだ。

 

…というところで、また紙数が尽きた。さらにつづく。