「頭がよくて性格が悪い人」の問題は意外と奥深い。
「頭も性格も悪い人」は、何となく万国共通っぽく、生物として普遍的な浅はかさ、しょうもなさを感じさせ、それはそれで写実主義ブンガクの格好の題材となる。人間喜劇。
だが、頭がよくて性格が悪い人の「性格の悪さ」は一種独特で、他の動物にはない闇を感じさせる。
ヒーローものなどで、最終的に倒される悪の首領は、単に粗暴な野獣ではなく、すぐれた知性や超能力を悪用する存在として描かれることが多い。
「邪悪な知性」というのは、人類にとって、克服すべき永遠の課題なのである。
「他人を見下す受験生」には、「ダニング=クルーガー効果」による単なる勘違いピーポーが多いのではないかと、わたくしQ氏は見ているが、中には「本当に頭がよくて人を見下す人」もいる。これは、キツネや熊の悪がしこさと同じく、「知性そのものがもつチート指向」に由来する性格の悪さではないか…という仮説を前回までに立てたが、果たしてそれだけだろうか。
いわゆる「頭のいい人」を観察していると、独特の人間性の悪さ(高慢、冷酷、貪欲、不寛容、短気、視野の狭さ、無責任・無節操など)を感じさせる人と、「神さま仏さまみたいに優しく懐の深い、腰が低くて品のある人」にきれいに分かれる。優しいほうの人も、接してみるとある程度は計算高く、欲深いのだが、あまりそれを表に出さないし、時にちゃんと自分を犠牲にして他人のために計らってくれるので、総合点で「優しく素敵な人だ」となる。あれが理性の人なのかもしれない。
頭がいい人の集団の中の、この違いは何だろう。例えば知能指数ごとに段階があるのだろうか。IQ130以上だと優しいが、それより下だと悪がしこい、とか。
Q氏の思うに、この違いのひとつの大きな原因は、「愛」の量の差である。
要は、愛を知っている人かどうか。受け取ってきた愛、みずから与える愛。
愛を知らない知性が、ダークサイドに堕ちるのでは。
まるでスター・ウォーズ。
もっとひらたく言えば、頭はいいが人間性に問題がある人というのは、成育の過程で十分な愛情を得られなかった、ひどいいじめやハラスメントを経験した…等の原因で、心に大きな傷を負い、自らの弱さにさいなまれている人なのではないか。
偏見を振り回すわけではないが、やはり親子関係の問題が背後にあるケースが圧倒的に多い気がする。成果だけを求められ、存在そのものを認められた実感が持てないような、冷たく、厳しい親子関係など。
「頭はいいが性格が悪い人」は、おのれの不安を隠すために強がり、周囲を見下し、自分が親にされてきたように、努力しない・或いは成果が出せない人々に対して、毒を吐き散らしているだけなのではないか。心の欠落感を、他人で埋めているのである。
「女性装の経済・社会学者」として著名な東京大学教授・安冨歩氏は、おのれに鞭打つようにエリート街道を突き進んでいた若年の自分が、内心はいかに自信がなく、不安にさいなまれた存在だったかを、各所で語っている。安冨氏には強靭な知性があるから、内心のみじめさゆえに、かえって外部には強さを誇示してしまう自分の救いのなさに早々と気づき、新たな人生への方向転換ができたのだろう。
パワハラ報道でキャリアを中断せざるを得なくなった元衆議院議員の豊田真由子氏も、まったく同じような内容を随所で語っている。いま、コメンテーターとして活躍している豊田氏を見ると、聡明かつ上品な印象で、パワハラとは無縁な人に思える。憑き物が落ちたのだろう。
「威張る秀才」の大部分は、実はこれではないかと思う。かれらはご家庭が厳しかったのだ。幼少期からノルマを課せられて勉強し、努力で地位を築いたが、ひとの愛情というものを心から感じ取ることができずに来てしまった…等々、ややさびしい人々なのではないか。むかし「家の中に、だらしなくゴロゴロできるスペースが1か所もない」ご家庭を訪問し、戦慄を覚えたことがある。
他人に向けられたかれらの言葉の刃は、同時に自分を責めさいなむ鞭なのかもしれない。
そう考えると、ちょっとかわいそうだよね。別にかれらに義理はないけれど。
安冨氏や豊田氏のように、頭のいい人は一度反省すると、すばやく「理性」の側にシフトすることができるらしい。君子豹変す。いま、諸君をうんざりさせている「マウンティング秀才」も、いつかは心を入れ替え、仏さまみたいな優しく素敵な人に変わるのかもしれない。少なくとも、その希望はある。かれらは頭がいいから。
秀才よ、ダークサイドを出でよ。
だから「アタマがよくて性格が悪い人」に対しても、結局は「スルー政策」が唯一の正解だろう。
平凡な結論に終わったが、愛を知る受験生は、明日からも、かれらをそっと強がらせておいてあげよう。それが、オトナというものだ。
オトナはサニーサイドを歩め。