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アタマのいい人はなぜズルいのか

将軍徳川家宣・家継の2代に仕えた江戸時代の儒者新井白石「才あるものは徳あらず、徳あるものは才あらず」という言葉がある。

 

ひらたく言えば「アタマのいい人は人間性が悪く、人間性のよい人はアタマがあまりよくない」の意味だが、そのあとに「真材誠に得がたし(アタマもよく人間性もすぐれた真の人材は、なかなかいない)」と続くから、白石がこの「現実」をただ肯定していたのではなく、才と徳とを兼ね備えた高次の人格的完成を目指すべきだと考えていたことが分かる。

 

わたくしQ氏は新井白石の言うことに全面賛成であり、「アタマがいいだけ」の人がうぬぼれて威張り散らす姿を見ると、時代劇「必殺仕事人」のBGMとともに後ろから近づき、膝カックンして闇夜に逃走したくなる。一瞬、カックンする膝のレントゲン写真が出たりして(←このネタ、わかるかな)

受験生諸君も感じているだろうが、確かに、アタマがよくて性格が悪い奴というのは、世の中にけっこういるのである。

 

なぜか。

 

じつは、Q氏は、これはある程度仕方のないことだと考えている。

知能というのは「事態を予測し、場合によってはその裏をかく能力」である。裏をかく、すなわち行動の不確定性を留保するのが、知能の発達した動物の特徴である。クマは人間の小学生程度の知能をもつというが、時として自分の足跡を逆にたどって逃走し、猟師の裏をかくという。

だから、頭のいい奴は人をだますのである。いや、人をだます能力を持つ奴のことを、頭がいいと呼ぶ。

 

イヌは頭のよさもほどほどだから、ヒトの命令を忠実に聞く。が、ニホンザルはもっと頭がいいから、ことあるごとに手を抜き、サボろうとし、指示された芸をまじめにやろうとしないという。

だから伝統的な猿回し芸では、昔は練習をいやがるニホンザルを数人の人間が部屋に監禁し、よってたかって凄絶なリンチを加え、人間に逆らうとどうなるかを思い知らせたという。時として、あまりに過激な指導をしなければならなくなるため、猿回し芸にたずさわる人間の方が罪悪感で精神的にやられてしまい、廃業する人もいたそうだ(※)。昭和期の大学運動部みたいな話である。

※「日光さる軍団」村﨑太郎氏のインタビューによる。なお、現在はニホンザルの習性に合わせた調教方法が飛躍的に進化しており、昔のような指導は行われていないそうである。ニホンザルの調教も、スポーツ指導の世界とまったく同じですね。

 

けっきょく、頭のいい人は利にさとい。自分の利益にならないことはサッと見抜き、知らんふりをすることもできる。また、必要に応じて策略を使うことができるし、周囲の人が多少おっとりしていればなおさら、その人たちを簡単に出し抜くことができる。自分の身に火の粉がかかれば、頭のいい人はサッと避難し、それが他人の目から裏切りと見えることもあるだろう。また、周囲の人が気づかなければ、そっと手抜きをして、まんまと利益だけ得るというようなことも、やれる。

 

頭のいい人は、やはり多少なりともずるい。悪がしこい。それは、知性が発達した動物そのものの特徴だから、ある程度仕方がないことなのである。

 

が、人間という生物の場合、知性をチート行為ばかりに使っていると、逆に生存に不利になる。

人間は高度な分業にもとづく社会を作って生活しているから、社会を構成する個人の相互依存度も非常に高い。いくら頭がいい人でも、電気に詳しくなければ、テレビの故障には電器屋さんを呼ばなければならない。どんなに頭がいい人でも、晩ごはんに食べるお米は他人が栽培し、他人が運搬し、他人が販売したものである。食肉の調達という難題があるため、現代では完全な自給自足はかなり難しいだろう。

 

だから「頭のいい人の生物学的チート特性」はそのまま残っているのに、現代では「チート行為ばかりしながら生きると他人から嫌われ、社会から排除される」という、矛盾した事態が並立しているのである。

 

社会を維持するために、人間は「他人指向」になった。他人の利益になるようなことをわざわざする、つまり利他的行為をすることが、社会の他の構成員に気に入られ、集団に適応する方法なのである。その利他的思考回路が最高度に完成し、人類レベルの考察や配慮をするようになると、それは「理性」となる。

アタマがいい「だけ」の人は嫌われるが、理性的な人は人類の模範となる。生き残りに必要な「裏をかく能力」としての知性が、社会の調和をめざす理性にまで昇華されること、これが新井白石のいう「真材」の条件ではないか。

 

…となれば、受験生の周囲の「ちょっとアタマのいい人」などは、実は生物学的にはありふれた、大したことのない存在であって、「ちょっと顔のいい人」が次から次へと、世代を越えていくらでも生まれてくるのと同じ、働きアリのような存在だと見ることもできる。単なる確率論。アタマのいい人などいくらでもいるのである。

 

だから、周囲の頭のいい人がズルくて不快だったとしたら、これもまず、スルーが賢明。距離を置こう。狙われて策略を仕掛けられると厄介だから、その場合は早く逃げること。

そして、あなたも少しばかりアタマがよいのなら、新井白石のいう「真材」を目指して精進しよう。気恥ずかしいが「理性の人」になりたいものだ。

 

まだ「優秀だが性格の悪い人」問題の核心には至っていないが、とりあえず今回はここまで。