前回の続き。
基本的に「ヒトは考えない」という前提に立ってものを考えた方が、おそらく理にかなった判断ができる。
東京・上野公園の国立西洋美術館の庭にオーギュスト・ロダンの彫刻「考える人」があるが、実はあの人は、こぶしで顎を支えてウトウトしているだけかもしれないのである。ロダンは苦悩する人間の真実の姿を作品にした!…とか感動に酔っていると、真相は、そういうしょうもないことだったりするのかも。全裸でウトウトしてますからね。風邪引かないか心配。
では「生物としては考えることを嫌うはずの人間が、なぜ、現代文によく出てくるフランスの数学者・哲学者パスカルのいう『考える葦』になったのか」という問題はさらに奥深いので、また改めて。
優先順位からして、まず「では『考えなければならない』受験勉強をどうやって乗り切ればいいのか」という問題を「考えて」みよう。
体力使うゾ。
受験勉強の失敗は、要はダイエットの失敗と同じである。本来、自然の摂理に逆らうことをやり(ひとは飢餓に備えて、体に脂肪を蓄積しようとする)、それがうまく行かなかったからといって、この世の終わりのように嘆き、ぼやいているのである。
下りのエスカレーターを駆け上がるようなことをやっているのに、ちょっと立ち止まったらさっきより下がってしまった…とか言って騒いでいる状態である。
嘆かずにすむようにするために、対策は論理的に次の2つしかないことは、賢い医学部受験生なら分かるだろう。ただし「上りのエスカレーター」は存在しないものとする。
①下がらずにすむよう、永遠にエスカレーターを駆け上がり続ける。
②下がることを受け入れ、下がっても別に気にしない。
目を血走らせて勉強に邁進している皆さん受験生が採っている立場が①、めんどうな大学受験など最初から敬遠し、勉強はほどほどにしてテキトーに青春を謳歌するオトモダチの立場が②となる。さっそく運転免許取りに行ったりして、②の立場は楽しそうだ。
①は苦しいし、ともすれば精神的な破たんを招く。この方向で頑張りすぎて「性格の悪いエリート」となり、悪の組織に魂を売り渡してしまう人が続出していることは、前回までに見た通りだ。そうなりたいか、と言われると、ノーという人も多いのではないか。へたに良心を捨てて悪の組織に身を売ると、仮面ライダーとかスーパー戦隊とかマーベルヒーローとかジャスティス・リーグとかに、たちまち退治されてしまいそうだし。
かといって、かつての同級生で今は働きながらゆるゆるとサーファーやってるオトモダチ(かれもサーフィンに関しては①だったりする)みたいに、②で満足できる…という人は、そもそも医学部を受験しない。自分は医師になって患者さんを助けたい…などと使命感に燃えている受験生は、人生をユル~く②で済ませるという選択肢にも、抵抗を感じるだろう。ウェ~イ! とかいって楽しんでいる「陽キャ」のオトモダチを横目に見つつ、自分は「もっと『私はこれをやった』という、実感のある人生を送りたい!」などと焦って、かえって机にかじりついているのではないか。
(どうでもいいけど「陽キャ」「陰キャ」ってキャベツみたいですね。日なたで育ったか日陰で育ったか、みたいな。日なたのは青々としているが、固いから商品価値が低い…とか。「キャ」という、ぞんざいで日本語音としては不自然な略し方に、オジサン世代はかなり抵抗を感じる。なんとかならないかこの言葉。以上余談。)
ともあれ、①も②も、どちらの生き方もイヤだ。それが良心的な多くの受験生の考えではないだろうか。わたくしQ氏も両方イヤだ。①はいつ始めるにも疲れるし、絶対に長続きしない。年齢を重ねると②もいいかな…と思うようになってくるが、のんべんだらりと毎日同じことを繰り返し、新たな発見もなく進歩もないのは、さすがに歳を取ってもイヤなものだ。おもんない。
では、どうやって生物学的に不自然な課題にトライするか。下りのエスカレーターを上る最適な方法は何か。
もったいぶるようだが、紙数の関係でさらに次回につづく。