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勉強法武者修行_番外編01:記憶は体育

さて、わたくしQ氏の7回読み勉強法レポートだが、ついにギブアップ。本日はまったく報告する内容がない。内容がないよう…とかいう駄ジャレを飛ばし、墨をもくもくと吐きながら猛スピードで泳ぎ去るしかない。

リアルタイムで書くと、こういう中だるみが随所に生じるんだよな。

 

今日は地学基礎がぜんぜんできなかった…いずれこういう日が来ることは分かっていたのだが、強引に一般化すれば、受験生諸君にもありがちな日常のひとコマだろうと思われる。Q氏をはじめとする講師は常に上から目線で受験生諸君に接しているようだが、自分が皆さんの立場でイザ勉強を始めれば、なんてことはない、皆さんとまったく同じ、か弱いニンゲンなのである。

 

ただ、Q氏は百戦錬磨のツワモノ(?)なので、この程度のことではめげない。

受験生諸君は、いまのQ氏のように「勉強が予定通りに進まなかった」というだけで、しばしば不必要に落ち込み、「自分はダメな人間だ…」と自己嫌悪に駆られ、はなはだしい場合は勉強そのものを放棄してしまう。

「三日坊主の自分が許せない」と、三日坊主をしてしまった途端に意気阻喪し、勉強をやめる。このオール・オア・ナッシング思想が、勉強を継続するのには邪魔なのである。

三日坊主も、間を置いて続ければ、点線が遠目には実線に見えるように、諸君の立派な勉強の軌跡になる。

だから、Q氏は中断があってもめげないぞ! 受験生諸君もめげるな!

 

…さて、というわけで本日は報告内容がないので、番外編として「記憶」について思いつく話を少々。

記憶には反復が必要だということは、諸君も当然承知していることだろう。

反復は時間をおいて行うのが効果的だという、いわゆる学習曲線についても、聞いたことがある人が多いかもしれない。

 

さて、では実際に、「本など、一定以上の長さがある内容を反復すると、どの程度覚えているのか」ということについて、Q氏の経験(内観)を述べたい。

 

本で何十回も読んだというものは、Q氏にもさすがにない。

だから比較にはならないかもしれないが、映画の例を挙げたい。

 

世の中には、同じ映画を100回観る人もいるという。20代くらいの頃には、非常によく映画を観ていたQ氏も、さすがに、そこまでやったことはない。同じ映画を100回観るならば、違う映画を100本観たいと思う。

が、好きな映画はごく自然に繰り返し観てしまうので、何回も観た映画はたくさんある。

いちばんたくさんの回数を観た映画は、スタンリー・キューブリック監督2001年宇宙の旅(1968)で、17回である。今はあまり語られなくなった作品だが、実際に2001年を迎える前には、SF映画の金字塔として信者の多い作品であった。

 

難解な映画で、ストーリーが非常に分かりにくいという問題はあるのだが、映像詩という感覚の作品であり、CGがない時代にアナログ技術を駆使して創造された驚異の視覚効果と、クラシック音楽との陶酔的なコンビネーションを味わう作品である。よく、物語が解らないと言ってこの映画を批判する人がいるが、「映画は物語だけではない」ということを雄弁に語る作品なのだから、その種の批判は完全に的外れだろう。

 

さて、Q氏は『2001年』を17回観たので、もう、この映画についてはある程度、ドヤ顔で語る資格を得られているような気がしている。

が、「頭の中で上映できるか」と聞かれたら、やはり、できない。

難解と言われるストーリーだが、だいたい覚えている。場面の展開もだいたい分かる。個々のシーンは、「あのシーン」と言われれば、だいたい映像で覚えている。

が、頭の中で、全体を一貫して再現はできない。好きな映画を「頭の中で回せる」という人はたまにいるが、Q氏にはそれは無理だ。

 

もう一度観れば、「ああ、あったあった、このシーン」という風にして、身体が思い出す感じである。次にどうなるのかはだいたい分かるが、たまに次のシーンの予想が外れる。ストーリーが緊密に1本の線につながるような映画ではないから、また観てみないと、流れは完全には分からない。

 

英語についても同じようなことを考える。Q氏は私文の受験指導を通じて英語もそれなりに勉強したので、英語はネイティブ・スピーカーとの意思疎通ができる程度には話せる(自慢ではないよ)。

が、もうしばらく話していないので、いきなり何もないところから英語に切り替えろと言われたら、できない。ネイティブ・スピーカーの話をしばらく聞き、「慣らし」の時間をもらえないと、自分から話すこともできない。

だが英語圏に1週間滞在すれば、現地で問題なく暮らせるだろう…くらいの感覚は残っている。

 

これらの現象は、記憶というものが完全にアタマの中で完結しているものではなく、身体的記憶の性格を強く持っているのだ…ということを物語っているように思う。

教科書を7回反復して読むと言っても、読んだから教科書の内容が頭に完コピされるわけではないのだろう。

どこに何が書いてあるかだいたい分かり、用語も「言われれば何のことだか分かり」、図だけ鮮明に記憶していたり、何々の内容はあのページの右上に書いてあったな…などという、位置の記憶をやけにしっかり保っていたりする。

 

記憶というのは恐らくそういうもので、たまに「ページ全体を映像として記憶している」特異な能力の持ち主(直観像素質者)がいるということは知られているが、大多数の人にとっては、いつまで経っても「断片の寄せ集め」だろうと思う。

そして、いちいちの断片に出会うたびに、五感が、或いは身体全体がそれを思い出すのである。

そういう意味では、記憶も体育である。

 

山口名人は昔に流行った「スポ根(スポーツ根性ドラマ)」顔負けの根性の持ち主と見ることもできると思う。名人が開発した7回読みも、「記憶は体育」という、ことがらの本質をよく見抜いた上で練り上げられた方法論だと言えそうだ。

諸君、いっそスポーツ感覚で記憶にチャレンジしよう!