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国語記述問題の調理法⑤──想像力の帝国・京都大学2022

さて、「医学部2次試験国語攻略」企画、めっちゃくちゃ駆け足で走り抜けてきた。ギリギリ試験数日前になって、いよいよ大トリ・京都大学医学部に到着である。当予備校代表、田代先生の出身校である。

 

東の東大と西の京大は、国語問題で見る限りどう違うのか。入試問題にはそれぞれの大学の見識が反映しているはずだから、特に言語力を試す国語の問題には、大学の「思想」がうかがえるはずである。

世間一般のイメージは「東大=官僚的な秀才」「京大=天才肌の、時として『変人』」という感じではないか。個々の学生の個性はもちろんばらついているだろうが、果たしてこのイメージは、学生の選抜段階でも見て取れる傾向なのか。

 

東大理科の現国問題が「平易な言葉で複雑かつ抽象的な思考を展開する文章」と見ることができるとすると、京大理系の現国にも似たようなことは言える。漢文がない代わりに現国が大問2題なのは京大の特徴だが、いずれの出題文も、さほど難解な言葉で書かれた文章ではないのが通例である(多少古い文体による近代の文章が、かつてはよく出題されていた)。

 

また、解答は字数指定によるものではないが、解答欄の行数は3~5行と非常に余裕がある。これは「この行数までしっかり埋めろ」という意味ではない、とわたくしQ氏は憶測する。検証できないので分からないが、おそらく簡にして要を得た答案ならば、極端な話、与えられた行数に足りなくとも、ちゃんと満点をくれるようなところが、京大にはあるのではないだろうか。広い解答欄にも「このくらいのスペースを取ってあげるから、自由に書きたいことを書きなさい」という大学のメッセージを感じる。とはいえ、3行の問題はそれ相応に、5行の問題は少し腰を据えてしっかりと記述することは、おのずと求められるだろう。

 

しかし「京大の現国の特徴は何ですか?」と言われれば、Q氏の意見は以下のようなものである。

すなわち、

①京大の現代文には「特異な感性」「特異な思考」に基づいて綴られた、やや規格外の発想、意外な論理を展開した文章が多い。

②世間一般のごくごく常識的な考えの持ち主には、一読してついて行けないような飛躍・錯綜した思考や、言葉の意味は分かるが、読者が追体験するのは難しいような特異な経験が述べられ、それゆえに多くの読者にとって「理解しにくい」ように思われる文章が目立つ。

③ ①②のような内容の文章に関して、筆者の言いたいことを説明させる設問が多いため、そもそも文章に共感できない受験生はかなり戸惑うものと思われる。

 

これらの特徴から「京大に合格できるのは、特異な思考や感性の主に自然に共感できる、自分自身が特異な資質をもつ受験生である」と即断するのは、ちょっと違うとQ氏は思う。京大現代文を読むにつけ、やはり受験生の大多数にとって共感しにくい文章を、わざわざ選んできていると思えるからだ。

 

京大が現代文で試したいのは、どうやら特異な感受性や思考に無条件に同化することではなく、

「それらの『異物』に対して想像力を働かせ、みずからの客観性は保ちつつ、一見理解しがたい相手を理解するための触手を伸ばそうとする『開かれた』態度」

なのではないかと思われる。

 

理解できない「異物」としての他者とこだわりなく対話を開始できる態度、いわば究極の「コミュニケーション能力」、あるいはその裏付けとなる豊かな想像力。京大の問題が問うているのは、受験生のそのあたりの能力なのではないか。

 

だから「わけ分かんない文章」に対して無理に分かったふりをするのではなく、この人はいったい何を言いたいんだろう…と、まず歩み寄ってみるような柔軟さを見ているような気がする。

 

「変人」の呼び名を喜ぶ特異な学生ばかり集めたがっている京大のイメージがあるとしたら、実際にこの現代文の問題で高得点を取れるような受験生は、恐らくそれとはかなり違う、高い「コミュ力の持ち主なのではないかというのがQ氏の見立てである。

 

だからこそ、京大医学部国語は、やはりあまり「忖度」なしに書いた方がよさそうだ。東大と同じく、文中の言葉で簡単に組み立てられるような問題ばかりではないから、自分の言葉で堂々と書きまくることは大切だろう。行数が多いから、京大の現代文の試験は、できるだけ楽しんで書きたいものだ。京大理系受験生諸君、京大の国語では最初からあまり構えず、しばし試験であることを忘れて、のびのびと落書きでもするように、下書きも作らず書いてみてはどうだろうか。

京大の問題は、答えにくいのだが、やっていて非常に楽しいことも確かである。解答の自由度は確かに高い気がするが、ただ自由にやればいいというものでもない。そのへんの兼ね合いが面白い。

 

では京大2022年国語・現代文の大問(一)岡本太郎『日本の伝統』を取り上げよう。著者の岡本太郎が亡くなってからもうかなり経つが、受験生諸君は1970年大阪万博太陽の塔の作者として、辛うじて知っているかどうか…くらいだと思う。芸術は爆発だ!」のせりふで有名で、生前はタモリにもよく真似されていた芸術家のオジサンだが、再評価が進んだのは晩年から死後にかけてである。彼に触発されたバンド「OKAMOTO’S」の、名前の由来になっていることでも知られている。

こうして遺された文章を見ると、生前は「変な芸術家のオジサン」と思われていた岡本太郎が、やはり非常に鋭い知性の持ち主だったことが分かる。論旨は坂口安吾の評論「日本文化私観」と似ており、芸術における伝統主義を痛烈に批判し、いわばベールを剥ぎ取ったむき出しの「美」との対峙を唱える、芸術論と言うよりも芸術家としての「宣言」である。岡本太郎の言葉がもつ紙一重」的なヒリヒリする感覚、これは確かに京大現代文が好きそうな主題なのかもしれない。

テレビCMなどにもよく出演していた生前の岡本太郎「ちょっとヤバいオジサン」感を知らない受験生諸君には、有難い権威による説教くさい文章と見えるかもしれないが、日常、芸術について考えている受験生には新鮮かもしれない。が、ただ「特異な感性」だけを披露した文章ではなく、非常に論理的だから、共感できるかどうかは別としてこの文章の論理をきちんと追え、と言われていると考えればよいと思う。

 

あまり小ざかしい「まとめ」に走ると、天国の岡本太郎「んーン! そりゃアァタの言ってることは、それは違うんだな!」などと目を剥いて怒られそうだが、本文の流れは以下のとおり。

 

芸術における伝統主義の否定。伝統的な美の象徴として法隆寺を挙げるところ、上記坂口安吾の評論とまったく同じだが、伝統は常に更新されるもの、新たに創造され続けるものだ、という確信がまず述べられる。

傍線部(2)「自分が法隆寺になればよいのです。」はこの文脈で、新たな芸術の伝統を作り直せ、自ら新たに生み出せ、と言っているわけである。

 

②では、どのようにして芸術は再創造されるか。ここが読み取りにくいかもしれないが、筆者が主張しているのは、伝統主義のベールを取り去って「物そのものと向き合うこと」、対象をその即物性(何の修飾もなされない物そのものの存在のありよう)において見ることである。

竜安寺の石庭のエピソードは、筆者自身が危うく伝統主義にからめ取られかけていたところ、何も知らない客の一見無理解な「イシダ、イシダ」という言葉が、かえって芸術の原点となる即物的な石の存在を意識させてくれた、という話。「イシダ」「タカイ」をわざわざ片仮名で書いてあるのは、その言葉自体を音として、即物的にとらえた感覚を表現したいからである。

小林秀雄の話は、伝統主義にかなり毒された知識人としての小林よりも、骨董を何も知らない自分の方が骨董品の本質的な価値を見抜くことができたが、それは自分が焼き物や壺にまつわる能書きではなく、焼き物や壺そのものを見ていたからだ、という内容である。小林秀雄も亡くなってずいぶん経つので、受験生諸君には目新しい名前かもしれないが、昭和期に絶大な影響力を誇った「批評の神様」であり、骨董趣味でつちかった「眼」を通じて、むしろ生涯「対象そのものに還れ」という主張を繰り返した批評家である。その小林でさえ、筆者に言わせれば「うっかり敵の手にのって」しまっているのであろう。小林秀雄権威主義を暗に批判する論調でも、岡本太郎は前に述べた坂口安吾と軌を一にする。

 

…とかいう解説は二次試験直前の現在、かなりどうでもいいが、要するに筆者の主張は、

〇芸術に関する伝統主義を去り、対象そのものとじかに向き合って「打ってくる」「ピリピリつたわってくる」ものを受け取れ。それこそが芸術のはじまりの点であり、芸術における伝統というものは、そのようなピリピリする対峙の経験から常に新たに創造されるものなのである。

という感じだろう。

 

伝統主義の否定は読み取れたとしても、では何をもってよしとするのかが、逆説的な言い方を多用しているために、読み取れなかったという受験生も多いと思う。そういう受験生にとって、本文最後の2行、

「美がふんだんにあるというのに、こちらは退屈し、絶望している。

 しかし、(5) 美に退屈し絶望している者こそほんとうの芸術家なんだけれど。」

は謎であろう。

 

ここでようやく、問題中もっとも答えにくい問五にチャレンジしてみよう。傍線部(5)に関して「ほんとうの芸術家」とはどういうものか、という設問である。「本文全体を踏まえて説明せよ」という指示だから、本文の論旨を押さえていないと手が出ない。特に上述②が読み取れるかどうかである。

 

傍線部(5)の1行前「美がふんだんにあるのに」「美」と、傍線部(5)「美に退屈し絶望している」「美」と、ふたつの「美」の意味が微妙に異なることに注目しないと、うまくまとめられないと思う。

ふんだんにある「美」とは、あらゆる色眼鏡を取り除いて見たときの物の美しさ、「ピリピリつたわってくる」即物的な美のことであろう。その「美」ならば身近にいくらでも転がっているのに、人々はその根源的な美を見ようとせず、芸術品に付されたさまざまな権威づけの言葉に惑わされている、ということである。そして伝統主義による権威をまとった「美」は退屈で、絶望的に面白くない、ということである。それが傍線部(5)の「美」の意味だ。

だから、伝統によって権威づけられた「美」に退屈し絶望している者こそ、かえってその「美」に隠されている対象の本当の美を発見する可能性があり、そのような発見の眼をもち、自分から新たな伝統を創造していく「不逞な気魄」を持った者こそ、「ほんとうの芸術家」である、と言いたいわけである。

 

Q氏の頼りない助け舟であるが、ここまで助け舟を出させてもらったから、実際の答案は諸君でまとめてみてほしい。これ以上あえて手を出さず、受験生諸君の創造力を信頼したい。

 

京大医学部受験生の諸君、試験会場で「新たな伝統を創造」してください。諸君の大暴れを楽しみにしています!