オンライン医学部予備校

2023年度入試で医学部(東大京大)への合格を目指す全ての受験生をサポートします。

大学入試はどこへ行くのか(3)

三が日も過ぎました。何事もあっという間です。受験生諸君、がんばってますか。

 

さて、大学入試での推薦・AO合格者の比率増加に伴う問題に、とりあえずいくつかの話題を付け加えておこう。

まず、制度に不満をもつ不平一般受験生・一般入学生の主張である。わたくしQ氏が聞いている限り、概して以下のようなものだ。推薦・AO制度に否定的な大人も共有している意見かもしれない。

 

① まず、学力試験なしで有名大学へのパスポートを得るというのがズルい。平常点とプレゼン・小論文などのハードルはあるとはいえ、一般生がこれだけ苦労している学力テスト抜きでの入試は、明らかに不公平である。

現に、推薦・AOで有名(私立)大学への入学を決める生徒には、「オトナでいう営業スマイルを作ることが上手な、要領ばかりよいコ」がかなり交じっており、面接やプレゼンの時だけは殊勝な顔をして通過しているかもしれないが、実は人間性最悪…などというコもいる。早期に入学を決めた段階で強烈なマウンティングを仕掛けてきたり、遊びまくって一般生の受験生生活に無用なノイズを持ち込んだりして、迷惑極まりない。

 

② 推薦・AOで重視される調査書の評定平均は、その学校での評価に過ぎず、学力レベルの学校間格差を考慮して補正していないため、客観性に欠ける。進学校で評定平均の低い生徒が、非進学校で評定平均の高い生徒に負けるという事態が生じうる以上、やはり推薦・AO入学者の入学後の学力は保証されてないことになる。

 

③ 大学が推薦・AOの枠の比重を増やすのは少子化に対応した経営的配慮にすぎず、実は学生の資質など二の次ではないかと疑われる。そのような政治・経済的理由によって、入試に向けてコツコツ努力を積む気をなくさせる、あたかも勤勉の美徳を否定するかのような改革を大学側が率先して実施するならば、社会にモラルハザードが起きる危険性がある(このモラルハザード論」が、推薦・AO枠増加に反対する人の最大の論拠ではないだろうか)。

 

④ 推薦・AO枠が増えたことに伴い、一般入試が異様に狭き門になり、以前は合格できた学力層の学生が合格しないことが常態になっている。これは大学による「偏差値釣り上げ」に過ぎず、企業の株価操作のようなもので、不当である。

 

⑤ 一般入学生によれば、推薦・AO入学生には優秀な人もいるが、学力不足と思われる学生も多数含まれている。特に語学力は低く、必修の英語の授業で基礎的な英単語をまったく知らないなどの醜態をさらす例を多く見聞する。自分があんなに苦労した英語の勉強を途中でやめているんだから、当たり前だろうな…と思いつつ、こんな学力で××大生、いや、そもそも大学生を名乗れるんだ…と白けながら見ている。

 

等々。これはQ氏が今まで実際に現場で聞いた声を、誇張を交えず、適宜言葉を補いつつまとめたものである。

全体として推薦・AOを取れない一般受験生のルサンチマン(怨念)がにじみ出る内容となっているから、この種の不満に対し、推薦・AO生やその保護者からは、

 

「利用できる正規の制度を利用して何が悪い」

「要領がよいのがズルい、と言うのなら、自分も要領よく立ち回ればいいだけの話。それができないというだけで、推薦・AO生とは既に差がついていることを知るべきだ」

「学校での普段の成績も一定水準を確保しているだけでなく、推薦・AO入試のためにかなり周到な準備をしているのだから、努力をしていないと非難される筋合いはない」

 

という反論が返される。反論にはこのような「開き直りタイプ」が多く、「学力偏重は限界に来ている。AO入試は学生の多様性を確保するために絶対に必要であり、自分はその多様化の推進に貢献しているつもりだ」というような、AO入試の趣旨に基づいた反論は聞かれない。本来は、こう反論するのが筋だと思うのだが。

 

批判はあっても、推薦やAO入学者の中には、平常点が非常に高い、優れた学業成績を挙げている人が実際に多い。旧来の推薦入学者タイプである。そういう人に対して、上記①⑤の非難は当てはまらないだろう。②については若干の問題が残るが。

 

現場で指導に当たるQ氏の観察では、「学業成績優秀で性格も真面目、非の打ちどころがない学生なのに、試験本番に弱い」という受験生が一定割合でいる。試験当日になると決まって「おなかが痛く」なってしまう神経質な人で、女子の比率が高い。本番になるととんでもないミスの奇跡的な連続技を発し、信じられないような総崩れ的結果になる。

平時の学業成績に文句がないのだから、こういう学生にこそ、試験一発勝負ではない大学入学ルートを確保してあげる必要があるだろう。このタイプの学生は、試験本番になると毎年繰り返し失敗するから、試験での合格を待っていたら何年かかるか分からない。Q氏は推薦制度というのは、基本的にそういう「優秀だが本番に弱い」人のためにある制度だと考えている。だからQ氏は制度自体を否定しない。

 

また上記①の批判に関連して、Q氏の観察からは、やはり「面接に強いタイプの人」というのが間違いなく一定数おり、実力以上の大学にも推薦やAOで合格することがある。ズバリ、容姿のよい人である。こういうことを言うと身もフタもないのだが、面接などの対面試験を重視すると、結果にルッキズム(外見重視、容貌による差別)の影響が必ず入る。Q氏はAO入試を受ける受験生をひと目見ただけで、だいたい合否が分かる。他人に好ましい印象を与える容姿の人は、面接を伴う試験の合格率が高いのである。容姿のよい人は頭脳もよく見える、というのは、心理学実験においても確かめられているという話だったと思う。

裏を返せば、特にAO合格者の比率を高めると、大学合格も「ただしイケメン・美女に限る」になっていく、ということかもしれない。見た目は地味だが懸命に勉強に邁進しているというような人物が、不利になっていく世の中ではあろうと思う。これは公平といえるか。この点、Q氏には大いに疑問である。

 

また、Q氏も日常的にやっているが、もはや、推薦・AO入試の事前準備・提出物(志願理由書やプレゼンテーション資料)には、高校の先生だけでなく、学習塾や予備校のアドバイザーの手が入りまくっている。受験生単独では思いもつかないような内容を、数多くの「ブレーン」が考え、文章を直し、読みやすい形にまとめるところまでやるのである。しばしば、学校担任や進路担当の先生が直したものを塾や予備校で更に直してもらい、両者「あ・うん」の呼吸で数回の推敲を経由し、完成させることが多い。国会の大臣答弁みたいなもので、AO出願者の出願資料の、少なく見積もって8割以上、おそらく9割以上には「官僚の作文」が入っているはずである。Q氏も「どうしてもと頼まれてやる」ケースが多く、状況に加担している。

 

こう見ると、他人に書類を揃えてもらって、言われた通りに面接の練習をして合格するAO受験生(AO受験生にもそうである人と、そうでない自立した人とがいるという前提で)というのは、議会のタレント候補みたいな感覚だな…と思う。具体的な政策立案能力と実行力が、どの程度望めるか。タレント候補が悪いとは思わないが、そういう存在だな…ということである。

 

さて、この問題、なかなか終わらない。とりあえずあと1回、引き伸ばして申し訳ないが、この問題に割いて、当座の結論としたい。

大学入試はどこへ行くのか(2)

三が日もすぐ終わってしまいますね。皆さんは初詣などには行きましたか?

わたくしQ氏はもう何年も行ってません。人ごみが苦手なもんで。

 

さて、お正月特別企画「推薦・AO入試は是か非か?」の続きである。

 

前回は推薦入試について概観したが、今度はAO入試(総合型選抜)を見てみよう。この「旧AO」が、一般入試の受験生から特に「不公平」だと評判が悪かった入試制度である。

 

AO入試には学校推薦の縛りはなく、出願条件も試験内容もまちまちであるが、総合型選抜という名称になってからは、小論文や口頭試問で知的レベルに関するチェックが入る形になっているようだ。

いわゆる「一芸入試」と言われた昔から、大学側からすれば、特別なアピールポイントを持っている学生を拾い上げて学生の多様性を確保する入試制度であった。

いわゆる難関私大では、今でもAO合格のためには、特別活動や研究計画などにおける「めちゃくちゃ高い」ハードルが課されている。が、大学によっては割に「ユルい」と感じられるAO入試もある。どういうアピールポイントがあればAO入試に合格できるのかは、やはり大学ごとに大きく違うとしか言いようがなさそうである。

 

が、AO入試では多くの大学で学力検査が課されないことから、受験生側からすれば学力競争回避の手段として利用できるという、「穴場」感に目が向いたようである。年々、志願者が増えてきた。現にQ氏の体感でも、AO入試の志願者は、2015年あたりを境に、もはや押しとどめられぬ勢いで増加している印象である。

 

AO志願者に聞くと、出願動機としてかなりの割合で「(心理的安定と生活設計上)大学合格をできるだけ早く決めたい」という声が聞かれる。

ほぼ一般入試しかなかった中で「受験勉強=過酷」と刷り込まれてきた世代としては、「大学合格は、したいと思ってできるものではなく、あくまでも許可されないといけないんだから、へたすれば2浪も3浪もするし、早くもへったくれもないんじゃないですかねえ…」と思ってしまうのだが、それは4年制大学進学者が同学年の5割を超えた、こんにちの受験生の常識ではないらしい。

 

とはいえ、AO入試合格者自体は2020年度の文科省調査で、大学入学者(延べ人数)全体の10.4%にとどまる。いちばん比率が高い私立大学で13.4%だから、実はAO入試の合格者は、大学入学者全体の中ではまだまだ絶対的少数派である。ABO式血液型で言うとAB型の比率くらいですね。

ということは、「AO入試は適正比率で運用されている」と言えるのではないか。一般受験生が抱く不公平感の原因は、AO入試ではないようにも思われるのである。

 

ひるがえって、同じ2020年度の文科省調査によれば、大学入学者全体に占める推薦入試合格者の比率は34.1%AO入試合格者と合わせて45%となる。

こうなると、確かにかなり多い印象である。

この推薦+AO合格者の入学者に占める比率を見ると、

 

〇国立大学12.2%(推薦8.9%,AO3.3%)

公立大学27.9%(推薦25.0%,AO2.9%)

〇私立大学55.6%(推薦42.0%,AO13.6%)

 

となる。

この数字を見てわかる通り、推薦・AO合格者増加に伴う「不公平問題」は、目下は主に私立大学入試に関して生じていると言えるだろう。

が、国公立大学でも推薦・AO入試の比率は増しており、国立大学協会は既に入学者選抜の「実施要領」(2020年度)において、推薦+AO入学者の比率を学部・学科の募集人員の「5割を超えない範囲」としている。反対解釈を下せば、5割までは増やす、ということである。この「5割」までという数字は、今後、推薦・AO入試による入学者確保の許容範囲とされることだろう。

 

これを多いと見るか、少ないと見るか。

Q氏から見れば、これは多い気がする。明らかに、一般入試に向けて勉強する受験生のモチベーションは落ちる。どんどん少なくなる一般入試枠での合格を目指して日々、三島由紀夫みたいなハチマキをして泣きながら受験勉強するくらいならば、何かにわか一芸を磨いてAO合格する方がマシだ…という気持ちは分からないではない。

 

「学力偏重をやめる」のはよいが、現行の制度では大学側のカリキュラム改革も伴わないことには、学士のレベルがガタ落ちする危険性が大いにあるだろう。もともと、日本の大学の学士号は、本当に保持者の学力の保証になっているのかどうか「わけ分からない」だけに、学士号保持者の質がいま以上にカオスな状態に陥ることは、目に見える気がする。それとも、1級学士、2級学士などの区分を設けるのか。

 

どうもこの手の改革をやると、多様な人材の確保という目的はある程度果たせるだろうとは思うが、一方で「国民挙げての『勉強するだけ損』な気風」を醸成することに手を貸してしまうという、モラルハザード(道徳ルールを守らない人が増えることによる危機的状況)問題が生じると思う。少なくとも制度の過渡期では、モラルハザードは避けられないだろう。

 

だから、Q氏はこの制度改革を静観しつつ、今のところは、厳しい一般入試にあえて挑む受験生の味方をすると決めている。

 

医学部受験生諸君、制度の変更などは世の常である。いちいち惑わされず、関門はまず正面から突破するよう努力しよう。推薦とAOが「楽をする道」だとは必ずしも言えないが、人生においては、あまり楽をすることばかり考えない方がいいのである。

楽をすると、生きる筋力がつかない。

 

あと少し、この問題を取り上げる。そうしたら、また共通テスト国語に戻ろう。そろそろ入試本番である。

大学入試はどこへ行くのか(1)

受験生の皆さん、お正月も追い込みがんばってますか。わたくしQ氏も、正月休まずにブログを更新するくらいしか皆さんにお付き合いすることができないため、今日は新春特別企画とまいります。

 

旧年中、元人気子役の鈴木福(Q氏はかれを「福くん」と呼びたい年齢のおっさんだが、もう立派な成人ですからね)がAO入試で「有名大学」に合格した(どこかはすぐ分かってしまいます)という記事を目にした。

Q氏はテレビを見ていないため分からないのだが、最近の鈴木福氏は報道番組の高校生コメンテーターを務めるなど、子役時代以上にマルチで知的な活躍を見せているという。子役として人気を分かち合った芦田愛菜(こちらもQ氏は「愛菜ちゃん」と呼びたいが、レディーに対してもう失礼ですね)とともに、かつて定説だった「子役は大成しない」のジンクスをやすやすと破り、公私ともに充実した生活を送っている様子なのはめでたい。このお2人には勝ち組感というかセレブ感というか、そういう眩しさが感じられますね。

 

鈴木福氏や芦田愛菜氏が有名大学に入った、というニュースは、大方の人にとって「すごいね! よかったね。大学生になってもますますがんばってね!」という話でしかないから、まったく問題がない。「Q氏的にも」ノープロブレムである。

 

が、Q氏が同時に注目したのは、同じ記事中の「今や大学入試は推薦・AOが主流」というレポートであった(正確には、現在はそれぞれ要件を厳格化し、「学校推薦型選抜」「総合型選抜」という)。

 

この件に関しては、実際に大学受験準備をしている受験生の方が、いろいろ言いたいことを心に抱いていることだろう。また、大学医学部や国公立大学はまだまだ一般選抜入試が主流だから、推薦・AO(以下もこの旧称を使う)は「自分には最初から関係のない話だ」と、どこ吹く風で過ごせている受験生も多くいると思う。

 

学校推薦制度自体は昔からあり、推薦を受けて学力試験を免除されるのは、高校平時の学業でずば抜けて優秀な成績を収めた生徒の特権であった。推薦枠自体も非常に小さく、推薦入学生は「学業における特権階級」というような位置づけであり、その他大勢の受験生は「推薦枠に入れないから」一般入試の厳しい競争に参入せざるを得なかったのである。ずば抜けて優秀な実績を挙げられていない「凡人」は、努力して入試の狭き門を突破せよ、という制度だったわけだ。

 

が、昨今主流となりつつある一般入試以外の選抜制度は、昔の推薦入試とは若干趣を異にする。

推薦入試には、ご存じの通り、大学側が割り当てた推薦枠を高校内部でさらに生徒に割り当てる「指定校推薦」と、学校推薦を条件に、受験生がより自由に大学を選択した上で自発的に出願できる公募推薦がある。これらは学校推薦が必要であるという点で従来の推薦入試に近く、評定平均をはじめとして高校の「お墨付き」があるという点で、いちおう学力等も保証されるというタテマエにはなっている。書類選考以外には小論文や面接、プレゼンテーションなどが課される場合がほとんどだが、共通テストの成績等の学力保証を求めてくる大学もある。

Q氏の印象では、指定校推薦の資格を得られる受験者には、「その高校の中では」旧推薦制度に近い「選り抜き感」がまだあるが、公募推薦となるとかなり審査が「ユルく」なってくる感覚である。あくまで印象であるから、厳密な検証を経ていない意見であることをご承知願いたい。

 

また、入試の通過条件の「ユルさ」も大学により、高校によるのはもちろんのことである。しかし、推薦入試であっても公募推薦の場合は、生徒が「受けたい」と言えば、高校側は、学力不足等を理由に強固に推薦を拒むということは、なかなかしないように見受けられる。学力の足りない生徒の要求に対し、けっきょく「根負け」して推薦書を出しても、その生徒がぶじに合格した際、高校の進学実績に算入できるというわけであろう。それに、普段はろくに勉強しない生徒からでも、目を輝かせて「人生の目標を見つけました! この大学で学びたいんです!」とか、うまいことを言いながら押しの一手で来られれば、優しい先生方は「じゃあ、心を入れ替えてがんばれよ!」と、推薦書の手配に走ってくれることもあるようだ。また、進学実績の伸び悩む高校では、「成績の悪い生徒をあえて推薦で大学に押し込む」という意図的操作も行われていると聞く。

が、これもすべて高校により、受験大学による。公募推薦は医学部でも実施されているが、もちろん要件は厳しい。公募推薦は指定校推薦と違って「落ちる試験」であるから、実力不足の受験生が見栄で出願した場合、「正当に」不合格となるケースはもちろん数多く生じる。

 

原則として一般入試を選択する受験生を指導することの多い(最近は推薦・AO対策の依頼も増えている)Q氏の耳には、このような推薦・AO入試への不満が多く聞こえてくる。いわく、不公平。日本史でやる、明治初期の不平士族みたいである。

Q氏は西郷隆盛江藤新平みたいな立場で、「不平一般受験生」たちの文句に耳を傾け、かれらのガス抜きのために説得を日々試みているが、かれらの不満に一理も二理もあると思うケースは確かに多い。多くは「実力不足の学生の上位校への合格」ケースである。

 

「推薦・AO入学の比率増加」が過渡的状況にあるこんにち、各所にひずみが発生していることは間違いなさそうだ。制度の趣旨自体が誤っているのかそうでないのかは、まだまだ分からないが。

Q氏もふだん場当たり的に対応しているだけで、問題全体を詳細に検討したことがないため、この問題、どこに行くのか、自信を持って予言できない。

そのうち明治の「不平士族の乱」みたいに、不満を抱いた一般受験生が腹いせの事件を起こす…とかは、不穏なビジョンではあるが、ないことを祈る。

 

この問題は大きいので、1~2回では論じきれない。今後も折に触れて考察したいが、共通テスト国語の話題に戻る前に、次回も「推薦・AO問題」に触れよう。

1年の計は立てない

受験生の皆さん、2023年明けましておめでとうございます。ヤンヤヤンヤ。

令和も早くも5年目に突入ですね。光陰矢の如し。

この1月、私大を皮切りにいよいよ医学部入試が始まる。医学部受験生諸君のご健闘を、わたくしQ氏も切にお祈りいたします。

がんばったり、がんばらなかったりしながら、とにかく切り抜けていきましょう!

 

さて「1年の計は元旦にあり」と昔から言い、元旦にはおせち料理か何かを食べながら、1年の計画を練るとよいと言われてきた。

が、何ごとも「ほんとかよォ?」と疑うクセのあるQ氏、この「1年の計」についても、今までの半生でさまざまな経験や観察を積んできた。本日はその報告である。

 

まず「1年の計画は必要なのか」についてであるが、いろいろやってみた挙句のQ氏の結論はこうである。

「1年の初めには、何らか『よし、やるぞ!』的な意気込みだけは新たにした方がいいかもしれないが、具体的な1年の計画は立ててもムダ

だということである。

なぜか。

1年のスパンがあると、前提としていた事情がころころ変わる。急な問題が起きる。予期せぬ幸運が舞い込む。このままずっと行くんだろうな…と思っていた境遇が、途中でガラリと変わる。目標にしていたことが達成されず、先延ばしになる。かと思えば、期待以上の結果に恵まれて、嬉しい悲鳴を上げながら計画を変更しなければならなくなる。

 

要するに、1年先は読めない。大人気だった芸能人が、1年後にはいつの間にか消えたりしている。今はこの世にいない人が、1年先にはオギャアと生まれてきたりする。

イヌやネコなんて、いま影も形もないやつが、春ごろになるとクンクン、ミイミイと生まれてきて、1年後にはあなたのうちで電気のコードをガシガシかじったり、ゴミ箱をひっくり返したりしている。こら、やめなさいってば。いたずら盛り。

 

医学部受験生諸君なんか、はっきり言って、この3月までの戦い次第で、4月以降どうなるのか分からない身である。吹けば飛ぶよな身の上。晴れて医学生になって、受験生時代を超える勉強量におそれをなしているかもしれないし、また振り出しに戻ってシコシコ入試問題集を解いているかもしれない。「縁起でもないことを言うな」と言われそうだが、冷徹に現実を見ないと、受かる時も受からないからね。

 

だから、1年の計画など立てるのはやめよう。「せっかくだから、今年はがんばるぞ!」くらいの気持ちの変化はあってもいい(あったほうがいい)が、計画を計画通り達成できる人というのは、いないのだから。

本の学校教育では、先生が生徒に計画を立てさせるのが大好きだ。ソビエト社会主義共和国連邦かよ。夏休みの学習計画表とかを必ず作らせ、提出させる。あんなものと言っては悪いが、全員が全員、計画通りやるものなのだろうか。先生が生徒を「ちゃんと管理してますよ、仕事してますよ」というポーズのために提出させているだけではないのか。

 

「人間は光の速度で考え、音の速度で語り、カタツムリの速度で実行する」というのは、むかしQ氏が創作した格言である著作権を主張します)考えたことは、ぜったいその通りの速度と形では実現できない。1日のTo Doリストを作って夜明けとともに行動開始しても、実際に達成できるのは、Q氏の感覚だと、いいとこ6割である。どこかで7割と言っている人がいたが、超人かよ。ムリだろ。その人は或いは、計画の立て方が謙虚な人なのかもしれない。

 

だから、学習計画なども、長期のものは作ってもムダ。1か月の計画も、思った通りには実行できない。実行できなければ、実行できない自分を責める心境に陥ってしまい、ヤル気に悪影響が出る。

ひと月先くらいのイメージだけ漠然と思い描いておき、実際やるべきことについて、はっきり意識するのは3日から1週間先くらいまでの内容にしておき、あまり時間的に遠くを見ないで、目の前の課題と日々、格闘するようにした方がよいと思う。目の前のレンガを1つ1つ積むだけで、ひとの精神はいっぱいいっぱいになってしまうからだ。

 

過酷な戦場から生還した兵士によると、敵の銃弾が降り注ぐ中で生き残るには、1m先しか見ず、常に、その1mを生きて前進しようと考えるのだそうだ。「1m分だけ生き延びる」ことを、ただ繰り返すのだそうである。1m、また1mと生きていくことが、戦場を生き延びることにつながる。なるほどである。重い体験談だ。

 

厳しく、頭を悩ませることばかりの受験勉強なども、命に関わらないとはいえ、市街戦の中を駆け抜けるみたいなものである。どのみち、計画ばかり立てていても、それを悠長に実現できる日など永遠に来ない、と考えてよい。荷台に積んだ荷物をボロボロこぼしながら走り続けるトラックのように、とにかく進むしかないのだ。

 

だから受験生諸君、とにかく目前の瞬間だけを切り抜けよう。今年も諸君の健闘を祈る。

助かる唯一の方法─芥川龍之介「蜘蛛の糸」をよむ②

蜘蛛の糸」は、罪人を救う方法としてはほぼまったく機能していないことが明らかになった。お釈迦様ピンチ?

いや、全知全能と考えてよいお釈迦様が、そういうトンチンカンで、磯野サザエさんっぽい粗忽(そこつ)なことをなさるだろうか。おそらく、あり得ない。

 

蜘蛛の糸を垂らすという救済方法には、どのような意味があるのかを考えてみよう。

蜘蛛の糸は、生前、犍陀多カンダタがした唯一の善行である「蜘蛛の命を救った」ことに対応するから、因果の原理を明らかにしつつ、かれを救う道具としてふさわしい。

蜘蛛の糸はしなやかで強く、犍陀多を地獄から救うのには適しているが、多数の亡者たちの重量には耐えきれない。つまり、救済の道具として完全ではない。

 

おそらく、②も最初からお釈迦様の意図なさったことがらである。なぜなら、お釈迦様は全知全能だから。お釈迦様は犍陀多を救うために、わざと、蜘蛛の糸という不完全な道具をお選びになったのである。

そして、犍陀多の後から罪人たちがのぼってくるだろうことも、お釈迦様は予見なさっていたとしか考えられない。罪人たちの重量がかかれば、蜘蛛の糸が切れることも計算なさっているはずである。

 

また、蜘蛛の糸によって、お釈迦様が犍陀多以外の罪人も一度に救おうとお考えになっていた…とは考えにくい。こういう罪人への救済措置を、お釈迦様が日常的にとっておられるらしい様子からすると、因果応報の原理に基づき、別の罪人には別の救済手段を、お釈迦様はそのつど用意なさるのではないかと思われる。

 

だとすると、お釈迦様は、罪人を簡単に救済なさろうとは思っておられないのだという結論になる。切れやすい蜘蛛の糸を用いるということは、犍陀多を救うお考えはお持ちでありながら、同時に、犍陀多が真の救済にふさわしい相手かどうか、試しておられるというわけである。

 

では、犍陀多はどうすれば本当に救済され、極楽に至ることができたのだろうか。

物語の成り行きを踏まえれば、犍陀多があとからのぼってくる罪人たちに向かって叫んだ言葉、その言葉に表された心が、決定的にいけなかったことになるだろう。

「下りろ。下りろ」ではだめなのである。

 

ではどう思い、どう叫べばいいのか。「下りろ。下りろ」の反対を考えるとすれば、

 

「あなたたち、私よりも先に行きなさい。この糸は極楽に通じています。元はと言えば、お釈迦様が私の生前唯一の善行に免じて、垂らしてくださったか細い、しかし尊い蜘蛛の糸です。でも、これは私の救済のためだけの糸ではない。地獄の苦しみに日々耐え抜いている、あなたがた全員にとっての救いの糸なのです。私の命などもうよい。私はあなたがたのために、喜んでこの身を犠牲に捧げましょう。糸が切れぬよう、いま私が手を離しますから、あなたがたは1人ずつ極楽にお昇りなさい」

 

というような言葉を吐けば「正解」だったのだろう。ドラえもん出木杉くんみたいな解答だけれども。

自分だけ助かろうという欲を捨て、自分の身を捨てて他人を助けようという利他の心、慈悲の心を発揮できさえすれば、おそらくお釈迦様は犍陀多を救うつもりでおられたのではないかと推測される。それこそ、仏のこころだからだ。

お釈迦様の「テスト」の内容はおそらくこれで、犍陀多はそのテストにパスできなかったわけである。

 

だから、この物語から読み取るべき「テーマ」は「ダメな奴は最後までダメ」ではなく、「利他の心・他者に対する慈悲の心を持つことが最も大切だ」になるはずだ。

たぶん、この物語の教訓は「だいたいそれで合っている」のではないかと思われる。が、その肝心のテーマが読み取れない人は、生徒さんと一緒に読んでみると、非常に多い印象である。

 

文学作品に関しては、最終的には「テーマ」を読み取ることが大切で、そこが非常に難しいところでもあるのだが、いずれにせよ、まず最初にやることは「論理的に読んでいくこと」だ。

 

ちなみに、犍陀多が上記の「慈悲の言葉」を口にすることができたとしたら、かれはどうなったのだろうか。

 

①その言葉を口にしたとたん、犍陀多の身体は一瞬にして極楽にテレポートし、気がつくとお釈迦様の前にひざまずいている。

②犍陀多も救われ、他の罪人たちも蜘蛛の糸を伝ってみな極楽に至り、地獄の罪人全てに解放の日が訪れる。

 

「因果による救済手段を個別に考え、ひとりひとりに課題を与える」お釈迦様の方針からすると、②は安易には起こり得ないだろう。①の結末になることが予想される。

 

また、今回、再び地獄に落ちてしまった犍陀多はどうなるのだろうか。おそらく、二度と救済されないということはあり得ず、再び救済のチャンスがめぐってくるのではないかと考えられる。お釈迦様の慈悲の心というのは、そういうものだろうから。

何千年も、何万年もあとのことかもしれないが、たぶん再びテストが行われる。その時は、犍陀多は見事にパスできるかもしれないのである。受験生で言えば何千浪、何万浪の多浪生活。

悲観主義者の芥川は、けっきょくは救われない犍陀多に、心に闇を抱えた自分の姿を投影していたのかもしれない。犍陀多に、当時勃興しつつあった社会主義運動の投影を見る解釈も可能かもしれない。が、そういう解釈とは別に、犍陀多の未来に希望を見出すことは、物語の内容から決して不可能ではないだろう。)

 

以上、国語の場合も、数学に劣らず想像力や論理性が必要だ──ということを、医学部受験生の皆さんが何となく納得してくれれば、わたくしQ氏も浮かばれようというものである。

「論理的に読む」については、引き続き次回以降も取り上げてみよう。

お釈迦様はドS?─芥川龍之介「蜘蛛の糸」をよむ①

コスパ」「タイパ」を重んじる最近の受験生に、あまり悠長なことを言っていると怒られるかもしれないが、「ブンガク」作品の鑑賞の実例として、芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸を取り上げてみよう。

 

蜘蛛の糸」はあまりにも有名な作品だから、読んだことがある人もたくさんいるだろう。芥川龍之介が1918(大正7)年に児童雑誌『赤い鳥』に発表した、かれにとって初めての児童文学作品である。

近年、研究によって「蜘蛛の糸」には原型となりうる似た内容の物語が複数存在することが分かっており、純粋な芥川の創作によるものではないことが知られている。芥川龍之介が、悪い言い方をすれば「パクり」の名人であることは、皆さんもすでにご存じかもしれない。

が、芥川以前の物語であるとなれば、なおさらこの話の「謎」を追及する楽しみが生まれる。

 

物語はお釈迦様のいらっしゃる極楽から始まる。お釈迦様が極楽の蓮池を透して下界をごらんになると、地獄には多数の亡者がうごめいている。中の1人、犍陀多カンダタという男は、極悪非道の大罪人であるが、生前一度だけ、小さな蜘蛛を助ける善行をなしたことがある。お釈迦様は犍陀多を哀れみ、地獄にひとすじの蜘蛛の糸を垂らし、犍陀多がその糸をたぐって極楽に至れるようにしてあげるが──。

 

ご存じの通り、犍陀多は、同じく蜘蛛の糸を頼って自分のあとから登ってくる大勢の亡者たちに気づくと、蜘蛛の糸を独占しようと叫び声を挙げる。

 

「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼつて來た。下りろ。下りろ」

そう叫ぶや否や、犍陀多のつかんでいた蜘蛛の糸はぷつりと切れ、犍陀多は再び地獄へまっさかさまに堕ちてしまう。

お釈迦様は悲しそうな顔をなさって、その場を立ち去られる。

 

──あまりによく知られたこの物語、どこか変ではないだろうか。

どんな極悪人でも、生前に1つは善行をなしたことがある。それはよい。慈悲深いお釈迦様がそのことを心に留め、悪人を救おうとなさる。それもよい。

因果応報、悪因悪果、善因善果。犍陀多が、生前、唯一命を救ってあげた蜘蛛の糸を使って、お釈迦様が犍陀多を救おうとなさるそのお気持ちも、理解できる。

蜘蛛を救ったのだから、蜘蛛の糸によって救われる。因果はめぐる。世の中はそういうものなのだ。ちゃんと納得できる物語の成り行きである。

 

が、犍陀多はお釈迦様の期待を裏切ったのである。せっかく救ってあげようとしたお釈迦様の慈悲の心を裏切り、またしても利己心をむき出しにし、蜘蛛の糸を伝って助かろうとする罪人たちを蹴落とそうとした。その、どこまでも克服できない我欲ゆえに、犍陀多はふたたび滅びざるを得なかった──そういう物語であろう。

わたくしQ氏も、むかしこの短編を読んだとき以来、そんなふうに「額面通り」受け取り、納得していた。

犍陀多はせっかく救済のチャンスを与えられたのに、それを棒に振った。がんらい極悪人だから、生前たったひとつの善行を見て救ってくださろうとしたお釈迦様のお心のありがたみも分からず、すべてを無にしてしまったのである。あわれな奴だ。

 

──かくして、この物語の教訓は何か? ときかれると、読者の中には、

「悪い奴はいつまで経っても心がねじけていて、ゆがんでおり、アタマも悪いから偉い人の好意を理解できず、けっきょく救いようがない」

と答える人が、けっこう多いのである。

「ダメなやつは性根から腐っているから、いくらがんばってもダメ」という教訓をここから受け取っている人は、かなりたくさんいるらしい。この物語を実際に教室で読んでみると分かる。

この考え方は、キリスト教でいう「予定説」というのにちょっとだけ近い。世界史でやるよね。

ダメな奴は何をやってもダメ。

でも、果たしてそうだろうか?

 

地獄に蜘蛛の糸を垂らした時点で、お釈迦様は犍陀多を救おうとなさっていたことは間違いない。罪人を救おうというお気持ちがなければ、お釈迦様はそんなことはなさらないはずなのである。だから、犍陀多はうまく行けば、ちゃんと救われたはずなのである。

が、一方で、お釈迦様が未来を見通す力をお持ちでないとも考えにくい。犍陀多を救おうとなさったはよいが、もしも、しなやかな蜘蛛の糸を地獄に垂らす、という方法をお取りになれば、

 ①救おうとした犍陀多だけでなく、他の亡者たちもやがてその糸に気づくこと。

 ②糸に気づいた亡者たちが、犍陀多の後から大挙してのぼってくること。

 ③そうすると、やがて糸が切れてしまうこと。

 ④糸が切れるのを防ぐために、犍陀多が他の亡者たちを排除せざるを得なくなること。

ぐらい、お見通しではなかったのだろうか。

 

が、お釈迦様が地獄に蜘蛛の糸を垂らされた時点で、①~④の事態が予見できたとすると、お釈迦様は最初から犍陀多を救えないことになる。③の事態に至れば亡者たちも犍陀多も地獄に逆戻りだし、④まで事態が進めば実際の物語通り、犍陀多は救済されずに終わる。

つまり、蜘蛛の糸を垂らすという方法は、最初から失敗する公算がかなり高く、犍陀多への救済手段として、まともに機能しないのだ。

 

ならば、お釈迦様は犍陀多を救う気など最初からみじんもお持ちでなく、助かる希望を一瞬は持たせておいて、後からもう一度地獄に突き落とすという「ドS」なことをなさって喜んでおられるのだろうか。

お釈迦様が「究極の善」でいらっしゃることを考慮すると、それもあり得ない。高校生くらいの人々ならば、冗談半分に「お釈迦様ドS説」などを唱えて喜んでいるかもしれないが、お釈迦様は、そういう俗っぽい存在ではいらっしゃらないのである。

 

ならば、この物語は何を語りたいのか。犍陀多はどうすれば本当に助かったのか。

いきなりな話題だが、次回につづく。

国語が分からないヒトはどうすればいいか

人間社会は、異なる能力を持つ構成員による分業によって支えられているが、情報化が進むにつれ、特に数学におけるセンス・才能が強調され、神話化される。 それが現代という時代だ。

が、数学とトレードオフ(両立不可能な)関係になりやすい国語に関しては、センス・才能がまったく関係ないのかといえば、これも多くの人が実感していると思うが、当然、ある。 間違いなくある。

言語的センス・才能と共感力・洞察力がずば抜けた人というのは、やはりごく少数だが、一定割合でいる。 小中学生を見ていると、勉強がからっきし苦手なのに、作文だけやたら得意な生徒がいる。 学生時代に劣等生だったと自称する人気小説家などは、これではないかと思う。

 

文学作品の鑑賞、さらに絞れば詩に対する感受性、解釈の力も、これはもう、ほぼ天性と言ってもいいのではないかと思う。 われわれ国語の講師は「詩が分かる」受験生に出会いたいし、そういう受験生と目と目を見合わせ、世界の深奥にかくされた秘密を知るもの同士の、ひそやかな微笑みを交わしたい。

… あんまりいないんだけどね。 だから今日も、半分あきらめながら詩の授業に従事。

 

「国語も才能」論から、悪いけど国語講師のホンネを言わせてもらうと、才能のないひとは、国語に関しても高度な分野はやはりダメダメである。 和歌の解釈とかは、できない人にはぜんぜんできない。

医学部を受験して合格するような知的水準の高いヒトでも、文学作品の解釈をさせると、幼児顔負けのトンチンカンさを発揮する人は、たくさんいる。 「登場人物の気持ちなんか分かるわけない!」と開き直る人が、最近、メディアで発言している著名人にも増えてきた。 

 

が、登場人物に対する一定の共感・感情移入を前提としないと、文学作品などはそもそも成立しないのであって、「自分が共感できないから他人も共感できない」というのは粗雑な決めつけである。 実際、時空を超えて、登場人物や作者へのある程度の共感が成り立つから、詩や散文というジャンルが存在しているのだ。 思えば不思議な現象である。

(作者が表現を意図した情緒などが、読者にそのまま伝わるか、というのはまた別の問題。 ある程度は伝わるから、伝えるジャンルが成立しているのだ、と当座は言っておく。 )

 

以前、あるテレビ番組で、著名な科学者に俳句を読んでもらうという企画があった。 日本を代表するような優秀なサイエンティストだったのだが、俳句はぜんぜん分からないらしく、いちいち字句にこだわり、いわば「ぶちこわし」な解釈をなさっていた。 あまりの大真面目なトンチンカンぶりに「詩が分からない人というのは、ここまで分からないものなんだなあ」と妙に感心したことを覚えている。 「不必要な分析」をするあたり、科学者らしいとも思った。

 

亡くなったある有名俳優が、生前、好んで色紙に書いていたのは、故・堀口大學訳で有名なフランスの詩人アポリネールの「ミラボー橋」の一節、

 

  日も暮れよ 鐘も鳴れ

  月日は流れ わたしは残る

 

の「月日は…」以下の部分だったという。

 詩の鑑賞(8)「ミラボー橋」アポリネール/堀口大學 – 幸田弘子の会

堀口大學訳には賛否があるが、一定年齢以上のファンには、この部分を愛唱する人が多いだろう。 セーヌ河の流れを見渡しながら、失われた恋を回顧するアポリネール絶唱は、「何となく高級っぽいブンガク的情緒」をよく満たしてくれる。

(わたくしQ氏も、初めてパリを訪れた際に、バタバタ走って真っ先にミラボー橋を訪れ、ドンとその上に立ってみた。 目に入ったのは割とゴミゴミした下町の風景で、ちょっと興ざめでしたね。 )

 

が、授業でこの一節を紹介すると、受験生の間に気まずい沈黙が訪れることが多い。

「ぜんぜん分からない」とのたまう人が、年々増えている印象だ。

もちろん「あ、いいな…」という受験生もいるのだが、もとより少数派の印象だし、分かる人は、何の説明をされなくても最初から分かる。「勉強」の必要などないのである。

絵が上手な人が、何の練習もなしにスラスラと、今にも動き出しそうなキリンの絵を描き、歌が上手な人が、さっき聞いたばかりの曲をその場で歌って、聴き手を感動させる──能力というのは、そういうものなのだ。 ない人には、ない。

 

ミラボー橋… わ、わからない! ただの橋では?」 とのたまう受験生に対し、ここでQ氏が「チミは国語の才能がないから、共通テストの国語はあきらめたまえ!」と突き放したらどうだろう。 心中、怒りと失望とがぐるぐると渦巻くかもしれない。

国語が得意な受験生はたいてい数学で苦しんでいるので、「チミは数学のセンスがないから、数学のテストはあきらめたまえ!」と言われるのに慣れ、いささかドMな心情に染まっていることが多い。 が、数学が得意な受験生はふだん否定的な扱いを受けることが少なそうだから、たまには「こんな詩も分からないの? だいじょうぶ? 熱測ってみる?」 とか言われるのも、いい経験かもしれないぞ。 知らんけど。

 

が、安心しよう。 大学受験の国語では、そこまで高度な「センス・才能」を要求されるようなことは問われない。 もっと基礎的なことができればよいのだ。 国語教育界は、受験生への要求を過剰にエスカレートさせるようなことはない。 過度な要求をしても、大部分の受験生には要求をクリアできない、ということが身にしみて分かっているからである(めちゃくちゃ失礼な言い方ですね)。

 

では、その基礎的なこととは何か。 「文章を論理的に読む」こと。 これ尽きる。

以下次回につづく。