オンライン医学部予備校

2023年度入試で医学部(東大京大)への合格を目指す全ての受験生をサポートします。

国語記述問題の調理法⑤──想像力の帝国・京都大学2022

さて、「医学部2次試験国語攻略」企画、めっちゃくちゃ駆け足で走り抜けてきた。ギリギリ試験数日前になって、いよいよ大トリ・京都大学医学部に到着である。当予備校代表、田代先生の出身校である。

 

東の東大と西の京大は、国語問題で見る限りどう違うのか。入試問題にはそれぞれの大学の見識が反映しているはずだから、特に言語力を試す国語の問題には、大学の「思想」がうかがえるはずである。

世間一般のイメージは「東大=官僚的な秀才」「京大=天才肌の、時として『変人』」という感じではないか。個々の学生の個性はもちろんばらついているだろうが、果たしてこのイメージは、学生の選抜段階でも見て取れる傾向なのか。

 

東大理科の現国問題が「平易な言葉で複雑かつ抽象的な思考を展開する文章」と見ることができるとすると、京大理系の現国にも似たようなことは言える。漢文がない代わりに現国が大問2題なのは京大の特徴だが、いずれの出題文も、さほど難解な言葉で書かれた文章ではないのが通例である(多少古い文体による近代の文章が、かつてはよく出題されていた)。

 

また、解答は字数指定によるものではないが、解答欄の行数は3~5行と非常に余裕がある。これは「この行数までしっかり埋めろ」という意味ではない、とわたくしQ氏は憶測する。検証できないので分からないが、おそらく簡にして要を得た答案ならば、極端な話、与えられた行数に足りなくとも、ちゃんと満点をくれるようなところが、京大にはあるのではないだろうか。広い解答欄にも「このくらいのスペースを取ってあげるから、自由に書きたいことを書きなさい」という大学のメッセージを感じる。とはいえ、3行の問題はそれ相応に、5行の問題は少し腰を据えてしっかりと記述することは、おのずと求められるだろう。

 

しかし「京大の現国の特徴は何ですか?」と言われれば、Q氏の意見は以下のようなものである。

すなわち、

①京大の現代文には「特異な感性」「特異な思考」に基づいて綴られた、やや規格外の発想、意外な論理を展開した文章が多い。

②世間一般のごくごく常識的な考えの持ち主には、一読してついて行けないような飛躍・錯綜した思考や、言葉の意味は分かるが、読者が追体験するのは難しいような特異な経験が述べられ、それゆえに多くの読者にとって「理解しにくい」ように思われる文章が目立つ。

③ ①②のような内容の文章に関して、筆者の言いたいことを説明させる設問が多いため、そもそも文章に共感できない受験生はかなり戸惑うものと思われる。

 

これらの特徴から「京大に合格できるのは、特異な思考や感性の主に自然に共感できる、自分自身が特異な資質をもつ受験生である」と即断するのは、ちょっと違うとQ氏は思う。京大現代文を読むにつけ、やはり受験生の大多数にとって共感しにくい文章を、わざわざ選んできていると思えるからだ。

 

京大が現代文で試したいのは、どうやら特異な感受性や思考に無条件に同化することではなく、

「それらの『異物』に対して想像力を働かせ、みずからの客観性は保ちつつ、一見理解しがたい相手を理解するための触手を伸ばそうとする『開かれた』態度」

なのではないかと思われる。

 

理解できない「異物」としての他者とこだわりなく対話を開始できる態度、いわば究極の「コミュニケーション能力」、あるいはその裏付けとなる豊かな想像力。京大の問題が問うているのは、受験生のそのあたりの能力なのではないか。

 

だから「わけ分かんない文章」に対して無理に分かったふりをするのではなく、この人はいったい何を言いたいんだろう…と、まず歩み寄ってみるような柔軟さを見ているような気がする。

 

「変人」の呼び名を喜ぶ特異な学生ばかり集めたがっている京大のイメージがあるとしたら、実際にこの現代文の問題で高得点を取れるような受験生は、恐らくそれとはかなり違う、高い「コミュ力の持ち主なのではないかというのがQ氏の見立てである。

 

だからこそ、京大医学部国語は、やはりあまり「忖度」なしに書いた方がよさそうだ。東大と同じく、文中の言葉で簡単に組み立てられるような問題ばかりではないから、自分の言葉で堂々と書きまくることは大切だろう。行数が多いから、京大の現代文の試験は、できるだけ楽しんで書きたいものだ。京大理系受験生諸君、京大の国語では最初からあまり構えず、しばし試験であることを忘れて、のびのびと落書きでもするように、下書きも作らず書いてみてはどうだろうか。

京大の問題は、答えにくいのだが、やっていて非常に楽しいことも確かである。解答の自由度は確かに高い気がするが、ただ自由にやればいいというものでもない。そのへんの兼ね合いが面白い。

 

では京大2022年国語・現代文の大問(一)岡本太郎『日本の伝統』を取り上げよう。著者の岡本太郎が亡くなってからもうかなり経つが、受験生諸君は1970年大阪万博太陽の塔の作者として、辛うじて知っているかどうか…くらいだと思う。芸術は爆発だ!」のせりふで有名で、生前はタモリにもよく真似されていた芸術家のオジサンだが、再評価が進んだのは晩年から死後にかけてである。彼に触発されたバンド「OKAMOTO’S」の、名前の由来になっていることでも知られている。

こうして遺された文章を見ると、生前は「変な芸術家のオジサン」と思われていた岡本太郎が、やはり非常に鋭い知性の持ち主だったことが分かる。論旨は坂口安吾の評論「日本文化私観」と似ており、芸術における伝統主義を痛烈に批判し、いわばベールを剥ぎ取ったむき出しの「美」との対峙を唱える、芸術論と言うよりも芸術家としての「宣言」である。岡本太郎の言葉がもつ紙一重」的なヒリヒリする感覚、これは確かに京大現代文が好きそうな主題なのかもしれない。

テレビCMなどにもよく出演していた生前の岡本太郎「ちょっとヤバいオジサン」感を知らない受験生諸君には、有難い権威による説教くさい文章と見えるかもしれないが、日常、芸術について考えている受験生には新鮮かもしれない。が、ただ「特異な感性」だけを披露した文章ではなく、非常に論理的だから、共感できるかどうかは別としてこの文章の論理をきちんと追え、と言われていると考えればよいと思う。

 

あまり小ざかしい「まとめ」に走ると、天国の岡本太郎「んーン! そりゃアァタの言ってることは、それは違うんだな!」などと目を剥いて怒られそうだが、本文の流れは以下のとおり。

 

芸術における伝統主義の否定。伝統的な美の象徴として法隆寺を挙げるところ、上記坂口安吾の評論とまったく同じだが、伝統は常に更新されるもの、新たに創造され続けるものだ、という確信がまず述べられる。

傍線部(2)「自分が法隆寺になればよいのです。」はこの文脈で、新たな芸術の伝統を作り直せ、自ら新たに生み出せ、と言っているわけである。

 

②では、どのようにして芸術は再創造されるか。ここが読み取りにくいかもしれないが、筆者が主張しているのは、伝統主義のベールを取り去って「物そのものと向き合うこと」、対象をその即物性(何の修飾もなされない物そのものの存在のありよう)において見ることである。

竜安寺の石庭のエピソードは、筆者自身が危うく伝統主義にからめ取られかけていたところ、何も知らない客の一見無理解な「イシダ、イシダ」という言葉が、かえって芸術の原点となる即物的な石の存在を意識させてくれた、という話。「イシダ」「タカイ」をわざわざ片仮名で書いてあるのは、その言葉自体を音として、即物的にとらえた感覚を表現したいからである。

小林秀雄の話は、伝統主義にかなり毒された知識人としての小林よりも、骨董を何も知らない自分の方が骨董品の本質的な価値を見抜くことができたが、それは自分が焼き物や壺にまつわる能書きではなく、焼き物や壺そのものを見ていたからだ、という内容である。小林秀雄も亡くなってずいぶん経つので、受験生諸君には目新しい名前かもしれないが、昭和期に絶大な影響力を誇った「批評の神様」であり、骨董趣味でつちかった「眼」を通じて、むしろ生涯「対象そのものに還れ」という主張を繰り返した批評家である。その小林でさえ、筆者に言わせれば「うっかり敵の手にのって」しまっているのであろう。小林秀雄権威主義を暗に批判する論調でも、岡本太郎は前に述べた坂口安吾と軌を一にする。

 

…とかいう解説は二次試験直前の現在、かなりどうでもいいが、要するに筆者の主張は、

〇芸術に関する伝統主義を去り、対象そのものとじかに向き合って「打ってくる」「ピリピリつたわってくる」ものを受け取れ。それこそが芸術のはじまりの点であり、芸術における伝統というものは、そのようなピリピリする対峙の経験から常に新たに創造されるものなのである。

という感じだろう。

 

伝統主義の否定は読み取れたとしても、では何をもってよしとするのかが、逆説的な言い方を多用しているために、読み取れなかったという受験生も多いと思う。そういう受験生にとって、本文最後の2行、

「美がふんだんにあるというのに、こちらは退屈し、絶望している。

 しかし、(5) 美に退屈し絶望している者こそほんとうの芸術家なんだけれど。」

は謎であろう。

 

ここでようやく、問題中もっとも答えにくい問五にチャレンジしてみよう。傍線部(5)に関して「ほんとうの芸術家」とはどういうものか、という設問である。「本文全体を踏まえて説明せよ」という指示だから、本文の論旨を押さえていないと手が出ない。特に上述②が読み取れるかどうかである。

 

傍線部(5)の1行前「美がふんだんにあるのに」「美」と、傍線部(5)「美に退屈し絶望している」「美」と、ふたつの「美」の意味が微妙に異なることに注目しないと、うまくまとめられないと思う。

ふんだんにある「美」とは、あらゆる色眼鏡を取り除いて見たときの物の美しさ、「ピリピリつたわってくる」即物的な美のことであろう。その「美」ならば身近にいくらでも転がっているのに、人々はその根源的な美を見ようとせず、芸術品に付されたさまざまな権威づけの言葉に惑わされている、ということである。そして伝統主義による権威をまとった「美」は退屈で、絶望的に面白くない、ということである。それが傍線部(5)の「美」の意味だ。

だから、伝統によって権威づけられた「美」に退屈し絶望している者こそ、かえってその「美」に隠されている対象の本当の美を発見する可能性があり、そのような発見の眼をもち、自分から新たな伝統を創造していく「不逞な気魄」を持った者こそ、「ほんとうの芸術家」である、と言いたいわけである。

 

Q氏の頼りない助け舟であるが、ここまで助け舟を出させてもらったから、実際の答案は諸君でまとめてみてほしい。これ以上あえて手を出さず、受験生諸君の創造力を信頼したい。

 

京大医学部受験生の諸君、試験会場で「新たな伝統を創造」してください。諸君の大暴れを楽しみにしています!

国語記述問題の調理法④──「オーソドックス」の快楽・名古屋大学2020

さて、「医学部2次試験国語攻略」企画、案の定、わたくしQ氏の更新ペースがぜんぜん間に合っていない。この種の原稿はストックの量産が非常に難しく、Q氏も苦慮している。受験生の皆さんのお役に立てず申し訳ない気もするが、皆さんにエールを送りつつ、ちょこっと入試国語のヒントをお送りしよう。

本日は東からついに日本の真ん中に近い、名古屋大学国語・現代文を取り上げる。縁起をかついで、味噌カツでも食べながら読んで張作霖! 読んでチョー・ヨンピル(←古い。受験生分かるかな。チョー・ヨンピル。『釜山港へ帰れ』などで知られる、K-POPの大先達である。)

 

さて名大の国語だが、理学部だけでなく医学部の国語も現代文のみになったのは2021年入試から。古文漢文がなくなったことでホッとしている医学部受験生も多いだろう。記述量は50字前後100字前後の組合せが多く、選択肢問題も併用されるが、現代文のみになってからの2年間は、特に出題形式が固定していない。

 

出題される文章は、受験生が不案内な特殊分野に関する解説が多い。Q氏が勝手な不満を述べるとすれば、医学部入試の国語が現代文のみになってから、出題文が説明的なもの主体になり、いささか「つまらなくなった」気がする。

出題形式はどうあれ、名古屋城金のシャチホコとは印象が異なって、内容は非常にオーソドックスな設問である。堅実で実利的な発想を好むという名古屋の気風を反映している──のかどうかは知らないが、とにかく正攻法で「本文のまとめ」を聞いてくるから、正攻法で「まとめ」るしかない。読んで考えることはもちろん必要だが、読み取った内容をそのままキチンと説明できるかどうかを問う設問の方が多いから、名大の場合は、山形大でも使った「本文中の語句を的確にコラージュする」手法が有効だろう。

 

設問はオーソドックスで、出題文の分量も4,000字前後とあまり多くないとはいえ、年によっては問題数が多く、記述量も増える可能性がある。どの大学もそうではあるが、名大医学部受験生は、45分という枠内であまり悠長にやっていると、時間切れになってしまうかもしれない。

医学部での現行の出題形式はまだ2年しか経過していないため、記述式と選択式の比率等は今年も変わる可能性があるが、記述の問題数が多めの場合がありうることは覚悟しておこう。記述式の中には字数指定による抜き出し問題も含まれ、すべての答案を自分で再構成しなければならないわけでもない。高度な高校入試問題みたいであり、あらゆる点で親切なのであるが、時間切れを防ぐために、出題文を注意深く読んだら、おもむろに記述問題に着手し、とにかく書き始めるのが大切なことは改めて言うまでもないだろう。

 

記述問題として、文中で示されている二項対立に基づいて、2つの事柄を対比しながらまとめることを要求する問題がよく出題される。二項の対立軸を見出しながら読み解いていく方法は評論文読解の基本中の基本だから、名大の問題はここでも大変にオーソドックス。二項対立を前提として、対比的な2つの抜き出しを要求する設問もある。「対比」が好きなのが名大国語だと言えるかもしれない。

抜き出し以外の記述問題も字数はしっかり指定されているから、可能な限り下書きを作成した方が、答案に自信が持てそうである。

 

まだ古文と漢文があった時代の問題になるが、2020年の現代文(犬飼裕一『歴史にこだわる社会学』)を取り上げよう。この文章も二項の対立軸を段階的に提示しながら、歴史社会学という新しい学問分野の可能性を述べている、読みやすい割に、受験生諸君にとっては目新しい問題提起と映るのではないか。

 

医学部受験生にとっては社会学という学問自体、縁遠く感じられるかもしれないし、関心が薄いだけでなく、そういう分野があるということさえ知らない人もいるかもしれない。

が、名大の出題意図は「自分の知らない領域・関心の薄い領域についての文章であっても客観的に読め、内容を的確に把握できるかどうか」を試すことにある。よく「自分の関心がある文章は理解できるが、興味のない話題についての文章はまったく理解できず、試験でも得点できない」という受験生がいるが、国語はそれではだめなのである。中心的な話題に関心があろうがなかろうが、暗号解読のようにして客観的に内容を把握できること。試験で確かめられているのは、受験生のそういう能力である。名大の問題はその要求が比較的ハッキリしている。

 

本問は議論の各段階で二項対立が明確に示されているため、しっかり読める受験生にとっては親切で解答しやすいだろう。問題もステップアップ式に配置されており、大学の親切が身に沁みるようなありがたい問題である。

だから、名大医学部受験生に対してQ氏が何か言うとすれば、「この国語は割に親切だから、ガッツリ取るつもりで行け」ということである。相手の親切につけ込んで、問題の懐に入りまくってガツガツ取りに行こう。キャベツの葉に付く青虫のように、文章をモリモリ読んでモリモリ記述するのだ。

 

ここでは問3を検討しよう。問3傍線部②「社会科学が持っている両義性、二面性」についての小問2つからなるが、いずれも地獄のように答えにくくはない。「両義性」の用語の意味は大丈夫かな。「二面性」と言い換えてくれているから分かるだろう。つくづく親切な文章だ。

 

問3 (1)「『平等』という考え方の場合について」という問題の指示をしっかり守ることである。本文第7段落あたりから、巨大組織や大国を志向し、人間を「均質」な存在と見る考え方が、近代の「平等」思想に流れ込んだ結果、「平等」が「均質」に置き換えられる形で思想のゆがみが生じた──という趣旨の議論が続く。

社会学「両義性」を述べる前提として、

①人間は「本来個性的で、あらゆる意味で『平等』ではない」こと(本文第10段落)

②社会科学は、①のような人間を「無理やり平板化し、平均化し」「人々を『平等』に隷属化する発想と直接結び付いてしまう」こと(同上)

を押さえる必要がある。この①②を言い換えた表現は第11段落、12段落にもあるが、問題の指示に「具体的に」説明せよとあるから、第11段落の教育に関する説明に使われている具体的な言い換え表現を、うまく流用してはどうだろう。

まず下書きを作成してから、まとめてみよう。

社会科学が用いた「平等」の語が、本来は権力やイデオロギーからの人間の解放を意味していたにもかかわらず、巨大組織や国家の中で人間を均質化する方向に働き、競争を通じて隷属的で量産品のような人員を作り出す結果になっている、矛盾した有り様。(116字)

「平等」が、本来は「解放の論理」であったということには、結果的に人間の均質化・平板化を引き起こしたという事態との対比で、ちゃんと触れた方がよさそうだ。問題は何からの解放だったかということである。こういう点は、ツッコミが入らないようにはっきりさせた方がいいだろう。「権力(関係)」「イデオロギーの語が改めて見つかれば、これが使えると思う。

「どのような有り様」か聞かれているのだから、「有り様」それに準じる体言で答案を結びたい。

また、Q氏は「平等」の語の用法の変化を、変化の前後で対比的に示す必要から、あえて「矛盾した有り様」「矛盾」の語を使ってまとめてみた。

「組織」「国家」「隷属」などの語を適切な場所に散りばめ、論旨をはっきりさせるよう努めてみる。

これも、これくらい書けば、まあ基礎点ぐらいはもらえるだろう。

 

問3 (2)は抜き出しだが、傍線部②の直後「問題の所在を指摘してその対策を暗示しながら、同時に新たな問題を自ら作り出している」に誘導されやすい。が、この部分は具体性を欠き、冒頭の「一方で、」を削ってようやく40字だから「最も適切」とはいかないかもしれない。引っかけである。もうちょっと先に行くと、第13段落冒頭に露骨に「問題は…」で始まる一文が見つかり、この「特定の視点、特定の価値観からのみ『社会』のあらゆる問題を明らかにしようとする思考」がどうやら正解である。

 

名大医学部受験生諸君、文中に2つの事項の「対比」「対立」をしっかり読み込み、記述の答案には対比を強調することを意識しよう。オーソドックスな設問には、メリハリをつけた答案でキッチリ答えたい。

 

本番での諸君の健闘を祈る!

国語記述問題の調理法③──「考える」ことはむずかしい・東京大学現代文2022

さて、東から各1回ずつでお送りするという強引な「医学部2次試験国語攻略」企画、いよいよ東京大学理系国語である。

東大理系は文系よりも大問数が少ないというだけで、文系と同じ問題を課されるのはもうご存じだろう。これはどこの大学でも同じことで、理系は大問数が少なく、配点が小さいだけである。しかし、国語は数学と異なり、社会的生物としての人間に必要な基礎的言語力を問う教科だから、文系と同じ問題だから理系学生には難しい、ということはない。

 

数ある日本の大学の中で、受験の最高峰とされる東大理Ⅲだが、国語は理系共通問題だから、別に他の類と対策が異なるわけではない。

ただ理Ⅲの場合、合格最低点の高さから、とにかく国語でも、できる限り得点をかき集めておいた方がよいのは確かである。理Ⅲ志望の受験生諸君はスマートな人が多いかもしれないから、あまりえげつない真似はしたくないかもしれないが、過酷な戦いの場である入試でそんな綺麗なことを言っていると、必ずどこかから現れたストリート系ファイターに反則スレスレの技を見舞われ、一発で敗れる。ライバルは諸君の背後から常にナイフを突きつけているのだ。

入試の場では、プライドを捨ててできる限りえげつなく、なりふり構わず得点していこう。普段スマートな紳士淑女でありさえすれば、入試の現場ではケモノになってもよいのである。乱れよ、受験生

 

東大理系にすべり込む方式での合格を狙う場合に、「どのみち理系学生は国語が苦手だから、国語で得点せよ」というアドバイスがある。正しいと思う。

さらに「東大国語は古文漢文が課されるが、現代文はどうにもならないけれども、古文漢文は知識でどうにかなる。まず古文漢文を得点して、点をかき集めるべし」という忠告もある。これも、東大理系国語の基本方針としては正しいだろう。

 

が、理Ⅲはとにかく点の上乗せを考えなければならない。

そうなると、「古文漢文を取る」という基本方針に加えて「現代文でできるだけ部分点をかき集める」という、選挙戦終盤で1人でも多くのおじいちゃん・おばあちゃんと握手して回る立候補者のような、ドブ板選挙作戦を採るべきである。自民党田中派みたいな、泥臭い選挙戦をやれるかどうか、である。いずれにせよ、現代文から逃げ回るわけにはいかない(とはいえ、理Ⅲ受験生にはあんまり「逃げ回る」という意識の人もいないかもしれないがね)。

 

さて、そのような観点から東大理系国語の現代文を見てみよう。どの年度でもよいのだが、最新の2022年を取り上げる。

東大理系国語・現代文の特徴として、以下の点が挙げられると思う。

 

①出題は評論のみ。文章そのものは平易な表現によるものばかりで、難解・晦渋な表現はあまり用いられていない。1文ずつを見れば、共通テストよりよほど読みやすい文章ばかりである。

②具体例をもとに抽象的思考に進んでいく形の、「平易な文で高度な思考を展開する」タイプの文章が多い。思考の習慣がない受験生は文字面だけ読めても話題についていけず、結局何を言っているのか分からずに終わる可能性が高い。

字数制限がなく、2行で決められた大きさの解答欄に収めることだけを要求されるため、かえってどう書いたらよいか分からないという受験生が出てくる。

④傍線部の説明にすぐ使える語句が文中にない場合が多く、「単なる文中語句のコラージュ」で技術的に解答することが難しい設問がほとんど。本文の内容を自ら消化し、本文の趣旨を適宜自分の言葉で言い換えながら解説しなければならないため、上記と相まって、本文を理解できていない受験生には解答不能な設問が増える。

⑤ ④と関連して、文章外の教養がそれなりに要る。純粋に「文章だけ読んで解ける」問題にはなっているのだが、いわゆる教養や、時事などに関する基礎知識があった方が、問題文をより理解しやすい。

 

これらを踏まえると、受験生はある程度ゆっくり問題文を読み込んで、その文章が何を言わんとしているのかを理解した上で、上記④⑤の特徴を踏まえ、「とにかく自分を信じて自由に記述しまくる」しかない。

特に④のように文中の言葉をアレンジするだけで答えられないとすれば、文章から自分が受け取った内容をある程度自由な言葉で書くことを、かえって要求されているわけである。東大の記述は、限りなく口頭試問に近い記述問題である。

記述問題というのは、本来、文中の言葉のコラージュなどの処理技術コンテストで終わるべきではなく、本文から読み取った内容を解答者がじゅうぶんに消化した上で、「自分の言葉で」説明することを要求すべきだ…という、すこぶる「当たり前の」理念に従って、東大国語の問題は作られているわけだ。

根本思想はシンプル。だが小手先の技術を磨くことに慣れすぎたセコい知性の持ち主にとっては、はなはだ答えにくい。これが東大の問題の本質である。本式に「考え」ないヒトは、シンプルだが技術では答えられないという問題には、対応できないはずである。

 

この正統派の出題方針を踏まえれば、もはや答える側も、落語の熊さん八っつぁんみたいに大の字に手足を広げ、「オウオウ。こちとら江戸っ子でィ! 煮て食うなり、焼いて食うなり、どうとでもしツくんねえ!」と、たとえ実際に江戸っ子ではないとしても開き直り、出題者の意図をビクビクしながら「忖度」するのはやめ、ぞんぶんに暴れるしかない。

2行に収めなければいけないという条件はあるが、理Ⅲをはじめとする東大理科の受験生諸君には、国語の記述はヤケクソでもいいからとにかく書きまくれ!…と、Q氏は申し上げておく。もちろん、書くに先立って考えなければならない。

が、曲がりなりにも考えることさえできれば、そして諸君が考えた内容を忖度なしに思う存分書ければ、諸君の放った弾丸も、多少は当たるだろうぜ。節分の豆を拾うように、とにかく部分点を集めるのだ。

 

では2022年度の現代文鵜飼哲ナショナリズム、その〈彼方〉への隘路〔あいろ〕」)、軽くレビューしておこう。

 

カイロの考古学博物館で、日本人相手の観光案内に「パラサイト」しようとして排除された体験をもとに、筆者は近代ナショナリズムの基盤となる「ナショナルな空間」の成立要件を考察する。とりあえずの結論は、ラストから2段落目の冒頭「一言で言えば、あらゆるナショナリズムが主張する『生まれ』の『同一性』の自然的性格は仮構されたものなのだ。」に求めると分かりやすい。

 

すなわち筆者の主張は、

「自然にはもともとどのような形の区別も含まれないのだから、『生まれが同じ』などという言い方も本来はできないはずであり、人々が自然に生まれを同じくすることを前提とする『ナショナルな空間』も、後から作り上げられた制度にすぎない(そして、そのようなフィクションを前提とした『排除』が対内的にも対外的にも行われ始めている現状に、注意を向けるべきだ)」

となるだろう。

 

設問では(二)を検討する。傍線部イ「その残忍な顔を〈外〉と〈内〉とに同時に見せ始めている」の説明を求める問題だ。

ナショナリズムが、まず「国民」の内部でさまざまな集団の間に壁を築き、国民の一部を「非国民」として「摘発し、切断し、除去する」ことによって成立してきたのだという、傍線部イと同じ段落の内容を踏まえて答える。そのような「排除」の仕組みが「外国人」に向いた場合が、対外的ナショナリズムなのだ…と言いたいわけだが、「内部における排除」「外に対する排除」はいずれも、本来自然などではない「自然」な「生まれの同一」を仮構することから、同時に生まれてくるのだ…という結論になるだろう。

〈外〉に対して見られるナショナリズムの例として、現代日本でのネトウヨネット右翼)」によるヘイトスピーチなどの具体例が即座に頭に浮かばないと、生き生きとした関心を込めた答案が書けないだろう。その程度の教養は必要な問題だと考えられる。

 

また、外部への差別と排除が、内部での差別と排除から生まれる、という逆説を理解できるか。東大は「逆説(一見矛盾しているように思える真実)」「ジレンマ(矛盾した事柄の間での板挟み)などが、昔からかなり好きである。矛盾を矛盾としてとらえることができるのが本当の知性だ…などと言いたいのだろうか。

 

Q氏による試案は以下。

本来自然とは言えない特性によって人々を分断するのが、対象の内外を問わずナショナリズムの基本構造であり、階級による分断が日本国民の内部で進みつつある現在、外国人に対する排除もそれと同じように進みつつあるということ。

2行に入るかな? もしキツキツであっても、これくらい書いておけば絶対に点はもらえる。

東大理Ⅲ志望の諸君、気張れ! Q氏も応援するぞ!

国語記述問題の調理法②──「満点を狙わない」部分点解答法・山形大学2022

医学部受験生の皆さん、おつかれさま。国公立前期が迫ってまいりましたな。いきなり関係ないようだが、緊張する時にはぬるめの湯で長めの入浴がよいぞ。バスソルトとか入れて。あと、同じ姿勢での勉強を続けていると、若い人でも身体の各所に凝りが生じて、頭の働きが鈍くなる。ストレッチ、セルフマッサージなどを適度に取り入れよう。特に首から肩にかけての筋肉を努めてほぐすようにしたい。

さて、土壇場でわたくしQ氏の更新リズムが乱れたため、肝心の2次国語対策がスーパー駆け足になるが、ネットにはほかにもたくさんの情報がある。Q氏のレシピも参照情報のひとつとして、役に立つと思ったところを召し上がっていただきたい。

 

さて、山形大医学部前期2022・国語(一)(若林幹夫「なめらかで均質な空間が顕在化し始めた時代」)である。

 

まず、文章全体の言わんとしていることをきちんと汲み取らなければならない。この文章は「同時代論」の一種であり、ジャンルとしてはいわゆる現代思想のテキストと呼べる。1980年代以降の日本の風景・空間のありようの変化を考察しているが、そこに、単なる外観の改変にとどまらぬ「思想」もしくは「思潮」の変化を見ている。こういう文章は時代のドキュメントとしても大変重要だし、時代の変化を思想的に跡づけようとしている点で、自分たちの現在の「立ち位置」を非常に明確にしてくれる。新書版などでよく出版されているから、折に触れ読んでみると「いま、自分たちがどこにいるのか」よく分かる。

 

まず問5。傍線部B「高速道路や新幹線とは別の形でなめらか均質なもの」の説明である。本文によれば、八〇年代以降に日本中に出現した「なめらかで均質な景観(空間)」は、

 

①高速道路と新幹線によって国土的な規模で実現した「臭いも物音もなく、なめらかに連続する移動可能な景観」

②ショッピングセンターやリゾート施設、ニュータウン開発等の大規模な建築・土木事業や、童話風の外観を持つ戸建て住宅の普及(=「国土の改造」)によって実現した「なめらかで均質な景観」

 

が相まって形成されたものだと読める。冒頭に述べられている、「ウォークマン(現在の受験生は知らないのではないかと思うが、携帯型の音楽再生装置だというのは本文から読み取れる)」の出現によって現れたサウンドスケープは、上記①②に覆い重なる形で「なめらかで均質な景観経験」を生み出したわけだから、問5の答えにはふさわしくない。問5の答えには、上の②の内容をまとめて書けばよいということになるだろう。本文の論理的な流れを追った上で、「本文のどこが使えるのか」を見定めるのに、まずはエネルギーを注ごう。

 

上記②の内容の説明は、傍線部Bを含む形式段落の2つ前の段落から始まっているが、前2つの段落の説明は具体的な事例の羅列であり、傍線部Bの内容をまとめてくれるような表現は見当たらない。傍線部Bを含む形式段落の次の段落は、もう話題が変わっている。

だから結局、傍線部Bを含む形式段落の内容をまとめればよいことになる。なおかつ②の場合の「なめらか」「均質」の説明がほどこされている箇所を探すと、傍線部Bの直後が、解答に用いる部分としていちばんふさわしいことが分かる。

 

比較的親切な問題ではあるが、本文の「流れ」が読み取れなければ、どの場所を使って解答したらよいのか見当がつかなくなる。まずは慌てず、じっくり読んで論旨を追い、頭の中で論理的な流れをある程度チャート化し、設問に対する答えとして最もふさわしい箇所を探す。探せたら、その部分をいかに要領よく短文にまとめるか、語句を取捨選択するのである。

傍線部Bの直後の部分では「なめらか」の印象の起源については、少し説明が長い。土地や建築物・構造物の特徴がえんえん述べられているのだが、その部分のキーワードを抜き出せば、いちばん使えるのは「平滑さ」「幾何学性」ということになりそうだ。さらにファンシー調の「デザイン」の語句も使えそうだが、字数が足りなくなれば、デザインは幾何学性」で代表させてもよいかもしれない。

 

「均質」の説明はより短いから、使える語句は絞られる。上記の建築・土木事業を支えた「産業化された土木や建築の技術とデザイン」は、かなり使えそうな表現だ。「産業化」されれば物事は規格化され、均一になるのだから、「均質」の起源には「産業化」の語句を使っても、論理的におかしくはなさそうだ。

 

そこで、使う語句を並べながら文を作ってみる。この場合は「なめらかで均質な『もの』とは何かを最終的に答えなければならないのだから、解答の最後に名詞を持ってこないとまとまらない。使う名詞は「景観」でまとまるのではないか。

 

(A)「なめらかさ」の説明:新たに造成された土地とそこに作られた建築物や構造物が、区画の仕方やデザイン、素材など、あらゆる点で平滑さと幾何学性を特徴としている点。

(B)「均質さ」の説明:産業化された土木・建築技術とデザインによって作られた景観が、似たような様相を持ち、同じような印象を与えること。

 

とりあえず、この(A)(B)をつないで「景観」で終わる形にまとめてみよう。青字が(A)中の語句、赤字が(B)中の語句である。

 

産業化された土木・建築技術とデザインによって、区画の仕方や素材などについても平滑さと幾何学性を特徴とし、新たに造成された土地とそこに作られた建築物や構造物によって作られた、似たような様相を持ち、同じような印象を与える景観。(111字)

 

まだまだ長い。語句のダブりもあるし、「全国規模で作られた」というような語句も必要だろう。そこで削る。試験会場ではまず下書きを繰り返し、語句を削ったり加えたりしながら答案を作り、最後に清書する。

 

産業化された技術とデザインによって日本全国に作られた、平滑さや幾何学を特徴とする造成地と建築物からなる、似たような様相を持ち、同じような印象を与える景観(78字)

 

いったんここまで縮めれば、あとは少し情報を加えることができる。この問題で迷うのは、上記のなめらかで均質な景観が、「土地それぞれの自然と歴史と文化を物理的にも社会的にも剥ぎ取って」作られた、という部分を入れるかどうかだろう。「なめらかで均質な景観」と対比される、本来の景観がもつ特質を述べた部分である。

問8でも「八〇年代以降に人工的に生み出されたなめらかで均質な景観経験」と、「九〇年代以降に露呈した、なめらかでも均質でもない現実」とのギャップが問われている。要するに、八〇年代以降に成立した景観経験は、「現実」と乖離した、極端に言えば単なるまやかしなのではないかという論旨だ。

 

本来の景観が含む「自然と歴史と文化」「なめらかでも均質でもない現実」の側に属するものとして、問8の解答に吸収されてしまう気もする。だから問5では除外してもよさそうに思えるのだが、「なめらかで均質な景観」対比される重要な内容だから、最初の解答の字数を削って80字以内に収めた以上は、入れられる。やはり入れよう。

そこで次のようにしてみた。

 

産業化された技術とデザインにより、土地それぞれの自然と歴史と文化を剥ぎ取る形で日本全国に作られた、平滑さや幾何学を特徴とする造成地と建築物からなる、似たような様相を持ち、同じような印象を与える景観(100字)

 

予備校の模範解答とは異なるが、これくらい書いておくと、絶対に0点にはならないはずだ。むしろ8割くらいはもらえるだろう。

 

要するに、

(イ)まず本文の解答に使える箇所を見極める。

(ロ)次にその箇所の語句を取捨選択し、順序を考えて一文にまとめる。

(ハ)字数やつながり具合を考えながら添削し、最終的な解答にする。

(ニ)解答用紙に清書する。

の手順は、基本的にどの大学のどの記述問題でも同じなのである。

 

そして「予備校や赤本の模範解答に近い、満点の答案」を書くことを考えず、上記(イ)(ニ)の手順を忠実に実行して、

 

「常に半分くらい以上は部分点を取れる答案」

 

をまとめるつもりで攻めていけば、積もり積もった部分点が、記述問題を敬遠する受験生をしのぐ国語の加点をもたらしてくれるわけだ。

今回、山形大学の問題でやってみたが、何度も繰り返すけれども、どの大学でもこの方針で、とにかく記述問題を埋めまくるのである。

 

山形大学2022の(一)の問8は、この調子で自分で書いて練習してみよう。

さて、本番までの時間が短いため、次回は東から順に、東京大学理科の問題を扱う。待ってました。お楽しみに。

国語記述問題の調理法①──読めていれば怖くない・山形大学2022



わたくしQ氏の個人的事情で更新リズムが乱れてしまった。随時ストック原稿を作りながら更新し続けていたのだが、ここのところハードな内容が多く、ストックがついに底をついたのも大きい(タネ明かし)。アニメ番組の放映後半で作画が間に合わなくなっているケースみたい。

では残った期間、2次試験で国語を課す国立大学(山形大・東京大・名古屋大・京都大)の国語試験問題を考えてみよう。できることは限られているが、これら大学医学部受験生諸君の参考に少しでもしていただければ幸いである。

 

前回「基礎的な問題を手堅く解答するより、ライバルが敬遠する難易度の高い問題に手を出せ」と申し上げたが、それは、よくある「落ちるパターン」である「基礎をおろそかにして、応用問題ばかりやれ」と言っているわけではないことに注意してもらいたい。

いわゆる早慶上智などの有名私大文系に不合格になる受験生は、英語や地歴で「基礎レベルが9割以上できる状態」を実現する前に、無用な「難問奇問対策」ばかりやって自滅する。理系学部、医学部でも事情は同じだろう。基礎をおろそかにして難問の演習ばかりやっている学生は、まず100%不合格の憂き目を見る。

 

が、国語の「択一式」と「記述式」との関係は、必ずしも「基礎レベル」と「発展レベル」の関係ではないのである。国語では、出題された文章をすみずみまで的確に読み込めるかどうかがすべてであり、択一式も記述式も、読み取った内容を前提としているのは一緒であって、ただ解答形式が異なっているに過ぎない基礎レベルと発展レベルの差は、出題される文章そのものの難易度の差に当たる

ただ、記述式は「読み取る」だけでなく「組み立てる」能力が要求される分、めんどうくさくて応用レベルと分類されるというだけであって、「的確に読み取る」という基礎的作業ができさえすれば択一式はすべて解けるわけではないし、国語が苦手だからといって記述式が必ず書けないわけではない。

 

だから、文章が読み取れさえすれば、記述式に先に手を出すというのは「めんどくさい課題から先にやる」ことに当たり、「基礎を無視して応用ばかりに手を出す」という、ふつう避けるべきとされるやり方には当たらないのである。

「めんどくさいものから先に片づける」は仕事の進め方としては鉄則とも言える。Q氏が国語の記述問題を是が非でもやれ、というのは、そういう意味と解釈していただきたい。

 

さて、ではさっそく東から、山形大学医学部の国語問題をモデルに、傾向分析と、記述問題の解法を見てみよう。

 

山形大の場合、医学部前期は現代文のみ大問2題。(一)は評論で、哲学系の文章が多いのが特徴である。論理的文章の読解力を試す評論問題の出題文の典型は哲学系の文章と言えるから、正統派の出題方針と言えるだろう。大学の見識が窺える。が、内容が近年の共通テスト以上に難しいわけではない。

(二)は小説で、理系2次に小説を出題する稀有な大学である。内容も正統派のチョイスで、近代作家も出題される。大学入試国語としてはバランスがよく、教養も含めた正統派の国語力を問おうとする出題意図が明確だが、読む方は共通テストとさほど変わらぬ感覚で行ける。

 

どちらの問題においても、出題文のレベルは共通テスト以上ではない。共通テスト本文が読める人にとって、それほど怖い試験ではないと考えてよいだろうが、これは全国国公立大学共通の傾向である。共通テストレベルの現代文をきちんと読みこなせることが、いかに大切であるかが分かるであろう。あとは「めんどくさい」記述式問題に対応できればよいのである。

しかし、共通テスト国語は「読めていなくても、とりあえず解答はできる」形式であるから、もともと共通テストが全然読めていないような受験生は、国公立2次の国語にはまったく歯が立たないはずである。

 

山形大医学部の場合、出題文の分量は多い。毎年完全に一定はしていないが、評論・小説共に4,000~7,000字程度あり、共通テスト現代文の本文より若干長いのが普通である。下手をすると共通テストの5割増しくらいになる。大盛ラーメンみたいなものか。一定速度以上で読まないと読み終わらないはずだし、記述問題があるから、問題数はさほど多くない割に、問題処理能力はそこそこ高度なものを要求するだろう。

 

ここ3年間では、前期の国語は(一)(二)ともに、それぞれ記述問題2~3題を含む。2題の時もあるし3題の時もあるため、記述の出題数まで織り込んだ詳細すぎる傾向分析にはあまり意味がない。記述の字数は100字前後であることが多いが、それも記述すべき事柄に応じて決められており、完全に一定はしていない。だからあまり小手先の技術習得に走らず、あくまでも文章の勘どころを読むことに精力を使いたい。

評論は文中に出てくる概念の説明テーマの要約、小説は心情やその理由説明を書かせるわけだが、評論にしても小説にしても、記述問題で問うべき内容は真っ先にそれであるのは、どの大学でも同じこと。だからまず、集中して本文を読み取ることに努めよう。

(小説の心情問題について。心情そのものはさまざまな幅を持ち、Q氏が常に述べているようにある程度広い解釈が可能なものであるから、より論理的に解答できる、心情や言動の「理由」を問う問題の方が、国語の問題としては客観的で適切であろう。山形大の出題も現にそうなっている。)

 

ここでは今のところ最新の2022年(令和4年度)(一)の評論(若林幹夫「なめらかで均質な空間が顕在化し始めた時代」)を取り上げる。問題はネットで検索すれば手に入るから、各自参照されたい。山形大志望者は赤本等で持ってるよね。

 

問5問8が記述。いずれも100字以内である。問5は本文中の重要概念を踏まえた説明を要求し、問8は本文のテーマをストレートに問うている。これら2題ができる人とできない人とでは、記述力うんぬん以前に読解力が異なるはずである。では、次回、本文が読めていることを前提に、答案のまとめ方を解説してみよう。

差がつく問題にこそ手を出す



さて、では2次試験で国語を課す国立大学(山形大・東京大・名古屋大・京都大)の国語試験問題を考えるうえで、どういう見方をすればよいのだろうか。

 

前回述べた「理系大学2次試験で国語の試験を実施する意味」から考えれば、大方針はおのずから立つのではないだろうかと思う。

言語的思考力・表現力などの基本的資質を確かめたいというのがこれらの大学の出題趣旨なのだと考えられるから(受験生のある程度の「教養」を確かめようとする出題もあるが)、国語問題は記述・論述問題で取ってナンボであり、漢字や語句をいかににわか勉強しても、あまり、ライバルと差がつくような高得点は望めないのである(漢字や語句の勉強が無駄だと言っているのではない)。

そして、理系受験生の中には言語的記述・論述を苦手とする人が非常に多いから、上記4校では国語のできる医学部受験生が、それなりのアドバンテージを得ることが可能なのである(また、そうでなければ国語の試験を課す意味がない)。

 

それゆえ、わたくしQ氏も2023年の共通テストについてやったように、上記4大学の毎年の国語の出題をひっくり返し、もっくり返しして、年度ごとの出題傾向などを細かく分析しても、最終的な対策にはならないのである。

もちろん、そういう分析はまったく無駄ではないし、時間をかけてそういう志望校分析をじっくりやりながら勉強していけば、志望校の狭き門を突破できる可能性はとうぜん高まる。だから、細かい分析も一度はぜひやってみるべきである。実際に、国公立大2次試験の国語問題の分析をかなり細かくなさっている予備校の先生の記事などが、ネット上でタダで閲覧可能だから、いい時代になったものである。Q氏の受験生時代と違って、情報はふんだんにあるよね。問題はそれを利用する力だ。

武川 晋也|note

が、志望校のどんな年度の国語問題を解いても満点近くを取れるという受験生でない限り、必ず、細かい分析以前にやることがある。

 

「出題傾向というのはあってないようなもの」とまで言うのは言い過ぎだとしても、基本的には「どんな文章を出されても慌てず対応できる」能力を養っておかないと、出題傾向などは試験委員の先生方の意向で簡単に変えられるのだから、いつまで経っても出題傾向に振り回される受け身の受験生にしかなれない。問題分析を提供している予備校の情報などを見ても、そんなことは、はなから当たり前の話とされているのが普通だろう。

だが、やはりそういう「基本的なこと」で勘違いをしている人が、フタを開けてみるとウヨウヨいるのが、どの世界を覗いても同じ事情である。だから、Q氏はむしろ、「先端的かつ詳細な情報をうまく利用できず、それに振り回され、基本の『型』がおろそかになっている受験生」を念頭に、注意をしてみたいと思う(受験ブログも役割分担が必要ですね)。

 

2次に国語のある大学医学部の国語対策と言っても、この時期だから、かなり自力でやれている受験生以外に、とにかく土壇場で国語の得点を少しでも上積みし、ライバルに差をつけたい…と焦っている人は、もう、やることをかなり限定した方がよいと思う。

 

数学があまりにも不得意な中学生というのは非常に数が多く(政党を結成して国会に進出したら、間違いなく無視できぬ勢力を形成するだろう)、高校受験メインの地方などでは、高校入試では数学で壊滅的な点を取る。

受験対策にも出遅れ、小学校の算数レベルも怪しい…というような中学生は、どのみち今からがんばっても高校入試数学で高得点は取れない。だから、せめては計算問題をしっかりできるように…という親心から、学習塾などでは計算を練習させ、数学で0点やひとケタを取らずに、他科目で挽回できるように配慮するのである。諸君が大学生になって、塾講師や家庭教師のバイトで学力の低い小中学生を指導する際には、有効なやり方であろう。

 

が、実は「試験に受かるための得点をもぎ取る」ならば、「ライバル受験生ができない問題をできるようにする」方が近道なのである。一定レベル以上の見識を必要とする問題では、その科目が不得意な受験生はどんどん落伍していく。そういう問題は受験生に対するフィルターとしての機能(弁別力)が高い問題と言われるようだが、弁別力の高い問題が高配点なのは世の試験の常である。

択一式に弁別力の高い問題を1問忍び込ませれば、弁別力が高い割に配点が低い問題は作れるが、それでは問題を多く作らねばならず、作問の負担が大きい。受験生から見ても小さな問題に異様に時間を食うことになり、作問者・受験生双方にとってあまりメリットがなくなる。そのような経済原則は、入試問題作りにも確実に反映する。

 

「出題者心理を読む」ウラ技の発想と同じく、出題者の意図を汲むとすれば、医学部2次の国語では、結局は「記述・論述問題を1問でも多く、しかもなるべく的確に書く」のが試験突破の早道なのではないかと、Q氏は考えている。

チマチマ漢字・語句だけ取っても、得点はあまり伸びない。国語が不得意だから確実に取れるところだけ取る…という発想は、戦いにおいては必敗の姿勢ではないかとQ氏は思う。

 

だから、今から国語のにわか対策を意識するような受験生にお勧めしたいのは「にわか対策であればあるほど、狭く深く」やることである。

おそらく、知的に絶対優勢に立っていて「何でもできてしまう」ような受験生と競うのではなく、国語の得点を少しでも上乗せすることによって、「自分と同じ当落線上にいるライバル」に国語で勝つには、「現代文の論述・記述に1問でも多く手を出し、リスクを取りまくる代わりに部分点も取りまくる」のがいちばん現実的な方策だと思う。ヤマをかける…という話に近いが、国語の場合は「記述・論述が出る」ということ自体がヤマなのだから、このヤマかけは絶対に外れることはない。

 

山形大と名大医学部志望者は、現代文しかないのだから、とにかく記述・論述を書きまくろう。京大東大(常に「東大京大」という表記をするのは妙な東高西低の序列意識があって嫌なので、弥生文化が伝播した地域順に呼ぶことにしようか)も基本的には同じである。

ライバルの理系学生は、記述問題を敬遠する。だからこそ多くのバッターが敬遠する球に手を出し、とにかくバットを振って1回でも多く当てるのである。

 

「いや、Q氏はそう言うけど、難関大の記述って難しいんじゃ…」という諸君、甘いな…とまでは言わないが、

「皆が記述・論述は何となく難しいと思っているだけで、文章が読めてさえいれば、シロウトでも必ずバットを振れ、そこそこ当てることはできる」

のである。

記述論述のコツというのは「いかに他人のフンドシでうまく相撲を取るか」であり、まずは「本文中の記述のどこが使えるか」を的確に探し出す能力、言いかえれば「本文のポイントをいちはやく見つけ出す能力」がいちばん重要である。それができるようになるために、諸君は長い時間をかけて文章を読む訓練を積んできたわけだから、あまりにもトンチンカンな精神生活を送ってきた人でない限り、もう、だいたい本文のポイントは探し出せる。実際に、ポイントを見つけ出せるようになれば、その人に関して国語教育の目的は達成されたとも言えるのである。共通テストはこの能力と、選択肢の吟味力だけで行けた。

 

その「ポイントを探す」能力を前提に、あとは切り貼り、コラージュの能力を養うのである。記述論述などと言ったって、人間にはそうそうオリジナルな発想や、オリジナルな論理展開などを、いきなりやりこなすことはできないものだ。特に受験生諸君の大部分の年齢の人にとっては、国語力はまだ発展途上であり、自分の意見を論理的に展開する能力などは未発達なのが普通である。

だから、難関大入試の記述論述でも、実は、あまりにもオリジナルで高度な言語力はさほど求められていない。他人の意見をコラージュして、一貫性を持たせることができればよいのである。ただし、本文の趣旨をキチンと読み取ることは絶対の要請。これは共通テストと共通で、要するに大学入試は、作者の言っていることをいかに客観的に読み取るかの能力を試す設問がほとんどなのである。だから、共通テストのル・コルビュジエと曲がりなりにも取り組めた受験生は、難関国立2次の問題も行ける。要求される能力の断絶は、そこにはない。

 

さて、では、とにかく現代文の記述・論述問題対策に絞って、次回以降、前期試験直前までやり切ろう。受験生諸君がパンでもかじりながら片手間に読んで、少しでもヒントになるような記事を提供できれば、Q氏としても本望である。

2次試験に国語のある国立大学医学部

共通テスト2024の分析を細かくやったため、かなりの紙数を費やす結果となった。ここからは、前期試験を控えた国公立大学のうち、医学部に国語が出題される大学の傾向分析を駆け足でやってみたい。

 

国語の配点比重が極端に高い大学というのはないにせよ、医学部受験生に2次でも国語の試験を課すということは、2次試験形式の国語問題で初めて測れるような読解力・論理性・表現力・語彙力などを要求しているということになる。要求水準が非常に高い大学だということになり、難関国立大と呼ばれる大学が多いのは諸君もご存じではあろう。

 

医師の卵の卵にそのような国語力を求めるというのは大学の見識であり、理系科目に特化しがちな受験生から敬遠されてでも国語の試験を課すという大学の選択は、一般的に言っても、「わたくしQ氏的に」言っても、むろん評価できると思う。

文系で言えば、やはり2次試験に数学があるだけで受験生の多くは恐れをなすが、文系に分類される経済学部での学びにはもはや数学は必須だろうし、経営・法・社会科学系に数学的思考はがんらい必要だろう(日本の行政中枢において、数学をよく知らない法学部出身の財務官僚が財政政策の手綱を握っていることの矛盾はよく指摘される)。高校段階の早期に「文系・理系」を分離する制度設計になっている日本の教育制度自体、弾力性のなさを批判されても仕方がないと思う。

国語講師としてのQ氏も、市場拡大のためにより多くの理系学部で2次試験に国語が導入されることを強く推奨したいが(たとえば俳句を詠んでもらうとか──笑)、まあそれは冗談として、

 

〇2次試験に国語が課される理系学部では、やはり「国語に強い理系」が有利

 

ということは、指導経験からもはっきり言えると思う。配点は異常には高くないにせよ、他科目で失点した分を、国語での「貯金」が埋めてくれる──すなわち、国語が得点バッファーの役割をしてくれることが大いに期待できるからだ。

 

また、2次に国語が課されるような難関大学は、そもそも同学年の中でも特に知的レベルが高い層が受験する。知的レベルが高ければ、中には言語能力が発達した受験生が多い。だからこそ、2次試験に国語を課しても(文句を言いながらも)ある程度ついてくる受験生が多く、いわば国語はある程度できて当たり前という「予選」の役割を果たし、極端に国語力が低い受験生はそれだけで予選から落伍してしまう──という背景も考えられる。

 

また、すべての大学について統計をとったわけではないが、同じ言語能力を試す科目として、英語の試験はかなりの場合、国語よりハッキリと「予選」の役割を担っていると見ることができると思う。

帰国子女である等の有利な条件に恵まれない限り、日本語で育って途中から英語を学び始めた人の英語力はつねに似たり寄ったりであり、その中に極端な英語力に恵まれた人と、極端に英語が苦手な人がたまにいることを反映してか、英語の得点は標準偏差が国語より大きく、数学より小さい正規分布(偏差値でおなじみのつりがね型の曲線)になるようだ。

そういう英語の性質は「極端にできない人をふり落とし、ほどほどにやっている以上の人は合格させる」のに都合がよいのかもしれない。現に、英語の成績は概して勉強の蓄積量を反映するから、共通テストにせよ個別試験にせよ、英語ができていない受験生はそもそも「勉強していない」可能性が非常に高いのである。

 

しかし、個々の受験生の英語と国語の成績はあまり強くは相関しないし、必要とされる能力は異なるものと推測される。英語は応用的な能力を大きく必要とするが、根源的な思考力・論理性はあまりなくても、一定レベルまでは到達してしまうところがある。だから、英語力をやたらに振り回す人に思考力が非常に浅い人が多く交じっていたりして、いわゆる「語学バカ」問題が発生するのである。現にQ氏が指導していても、英語はやたらに得意なのに論理的思考力や抽象能力がなく、それらを国語並みに要求する難関大の英語試験になると、まったく対応できなくなる受験生は多い。

 

だからQ氏の乏しい知見からすると、やはり英語ができただけでは「ものを考えることができる人かどうか」はあまり分からないというのが正直なところであり、言語による思考力を試すには、どうしても国語の試験が必要になってくる。

多くの私立大は入試のハードルを下げるために国語試験を捨てて軽量化を果たし(それはそれで意味のある選択なので、Q氏はそのような私大の入試傾向を批判するつもりはない。むしろ、すべての大学理系学部の個別試験に国語があったら、極端な話、0点やひとケタ台が続出し、試験に必要とされる「弁別力」がなくなってしまう。だから、国語を課さない大学があるのはよいのである)、ほとんどの国公立大学では国語力は択一式の共通テストで試すこととし、医学部の場合は全国で4校のみが、2次でも国語を課すという重量級入試を実施しているのである。それでも、山形大と名古屋大の2校はさすがに現代文のみにとどめ、古文を課す大学は東大と京大のみ、漢文を課す大学は東大のみ(京大も他の大問に折り込むことがある)となっている。

 

なぜ2次試験で国語を課すのか。遠回りのようだが、そういう「当たり前のこと」から問うことで、見えてくるものがあるとQ氏は信じる。ちょっと前置きめいていてじれったく感じられるかもしれないが、次回にかけて、まず「医学部2次の国語試験にどういう態度で臨むか」を確認しておこう。